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伝達性なく存在したものとジレ

言葉はあくまでも後で他者に伝達するために出来たものだ。言語化に重きを置きすぎて個人的な感覚を無視した着地点にしたくない。言葉を覚える前の子供が感受性に生き、言葉を覚えた後は感受したもののうち言語化できなかったものは記録性がないため記憶されず存在しなかったことになっていのではないか。
(このテーマは文芸ヌーで『無重力の夕方』という作文にしたことがある。)

自分の内で沸き起こる感覚をまず感じ切るのに専念する。言語分野の回路は一旦切る。当てはまる感情を探し当てるのを後回しにする。大きく分けてポジティブな印象だったか嫌な印象だったかの分別も後でいい。何も判断せず受容するだけの没入状態は周囲に注意を払えなくなるためなかなか怖いよな。可能な時だけできるだけそうしろ。映画館やライブなんかはOK。誰かの言葉を思い返している時もOKだ。でも今まさに会話の最中なら良くないな。当てはめてしっくりこなければ後日観察し直せ。違和感を絶対に無視するな。違和感がなくなるまで当て嵌めては捨てることを続けるんだ。数秒間のこともあるし、数分かもしれないし、長いものだと数年かかって「あれはこういうことだったんだ」と理解して成仏することもある。だがその経緯が不可欠なセラピーだ。
ハードコア犬占いみたいな口調になってしまったが、それの更新は明日だ。ふるえて待て。俺も待ってる。

昨日会った友人が「あたしはそれを本人に伝えるとすっきりする。今だとTwitterで伝えられたり、小さなライブだと本人に言えたりする。すごいよね」と言っていた。熱量をこちらが受け取ったことは制作者に伝えていきたいしとても同感だ。
奇しくも今月見たデヴィッド・ボウイの映画のファンアート+感想企画に応募したら監督のサイン入りのポスターが当選したという連絡が来た。伝えたことが伝わって報われていった。ボウイもあの映画も超敬愛してる。

怖い例はこれの結論が「これは恋か」ってなった時ですよね。えっあの大袈裟な劇的な感覚の正体が「恋」!?そんならもっと桃色っぽいはずですが!?うわーでも納得できるわー説明付くわーの瞬間は血の気が引きますよね。

言語化していくと中国の古事成語みたいなものでとうに言語化されていてたった4文字くらいで表現されてたり、「フランス語で“ケ・セラ・セラ”ね」みたいに既に概念があったりする。
そういう時、「先人〜!」と肩を組みたい気持ちになる。
そういう実感が生きていて1番楽しい。
最終的に4文字ぐらいに帰結したい。


先日ベージュのテーラードカラー仕立てのジレを着た女子2人組とすれ違ったのだが、それは、そんなに被ることがあるアイテムだろうか。

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