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相談される人

ただ一人を説得するために言語化してきたように思う。誤差なく伝える工夫も含め。

友人がいる。ストレートなその性格は近くでまともに食らうとしんどかった。高校・大学と進学に伴い物理的な距離が生じていくにつれちょうどいい距離感になった。
互いの近況を伝えるため、何が起こって、何に怒っているかを手紙やメールでやりとりした。10〜20代の私達は何かに悲しみ、寂しさを抱え、怒っていた。

よく相談される側は相談する相手がいない。
いざ相談しようとすると話すきっかけがなく、自分のターンを作るのにすごく頑張らなくてはならない。本題前の枕の段階で「あーそれで言ったら私さー」とあちらの話が始まってしまう。おい待て今私のために地盤を均してるところでしょう。お、いい土地ある〜じゃないのよ。こうして相談できないまま相手の話を聞く日々は続く。今思えば「一旦聞いてもらっていい?」という導入を設ければ良かっただけのような気もするが、こっちだって牽制なしのいい感じの流れの中で徐々に話したい。話してもいいムードをくれ。あと枕を返せ。
手紙やメールはそういったことがなく要件を言い切れる。距離には心から感謝している。

友とは好きな音楽も服装も読んできた漫画も幸せの考え方も違うが、芯になっている感覚は共通している。どう共通しているのかは解明していない。彼女独自の視点からの指摘がとても意外(ときに心外)で、物事を多角的に見るのに必要だった。ゆえにもう相談する段階ではなくなったもののまとめを投げかけてみたりした。その反応が救いだったりするのだ。

第三者からは状況がよく見えるもので、こちらから見えている道順を教えねばと私はたびたびイタコとして周囲を解説した。霊は降りてこない。直接聞いていない、予測しうる範囲の、比喩としての、降霊。イタコは想像力。
証言と証拠品から現場近くのかなり特殊な施設の存在と状況と当事者の動機を言い当てたこともあった。コナンにも金田一にもイタコにもなってしまった。安楽椅子探偵能力よ勝手に開花するな。

そんな彼女のいいところは受け手として100点なところ。打てば響く。意見を言うのが怖くない。
「思いやりってなんだろ」
「思いやりは想像力だよ」
「!
 うわー、そうか。あー。すごい。すっきりした。言語化すごい」
いや君のおかげでな。
お前幸せになれよ。
(この「幸せ」に差異があるんだよな)

なお、彼女は私に欠如している礼儀や暮らしを整える能力など非常にしっかりしている。見習いたい。まじでリスペクト。先日数年ぶりに会うなり「そのスニーカー、私もしばらく気に入ってて3足履き潰した」と言われた。我々の共通の好みは靴みたいです。

木蓮も辛夷もそろそろ開花



おもに私含め二名を生きやすくする手段としての文章化とその手前の整理を「言語化」としました。日々言葉を扱いその文章量に敬服するコピーライターさんや作家さんの手前なんともおこがましいですが、そういう市井の私たちは書くことで救われることがあるということでひとつご容赦ください。

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