『ゴジラ -1.0』は特攻を肯定してないよね
Xで「『ゴジラ -1.0』はダメな脚本だ。特攻を肯定している」というのを見かけたので、「そうはならんやろ」という僕の考えを書いておく。
(若干ネタバレあり)
もし、脚本家が特攻を肯定したかったなら、
出撃前に、整備兵がパイロットに脱出装置の操作を教える
パイロットは脱出装置を使わず、特攻する
残った人たちはパイロットの犠牲に感謝する
というような要素が映像で示される必要がある。
でも、実際には、
整備兵が脱出装置を説明する様子は、出撃前には映像では示されない(最後に種明かしされる)
パイロットは脱出装置を使う
生き残ったパイロットが、新しい家族と喜びを分かち合って終わる
となっている。これで「特攻を肯定している」とはならないでしょう…
僕は『ゴジラ -1.0』はさほど評価しないけど(ゴジラの行動原理が分からないのと、あのゴジラの造形が好きじゃない)、「特攻を肯定しているから脚本がダメだ」という批判は当たらないと思う。
ついでに。
件のXのポストでは、「パイロットは愛する者を殺された怒りで血が上って特攻するつもりになっていた」としているけど、
特攻から逃げて、自分は生き残ったことを自責している
ゴジラにビビって機関砲を打てなかった。そのため大戸島の整備兵たちが死んだことを責められた
帰った東京は灰燼に帰していた。隣家の女性に責められた
愛する人の夫にもなれないままだった
こういういろんな要因が重なっていて、彼のモチベーションはかなり重層的で、複雑なのよね。
前半のかなりの時間とシーンを使って描いているところなんだから、そこは読み取る必要があるんじゃなかろうか。
というわけで、あのXの脚本の批評は、的を得ていないと思います。
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