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CAFE_nerd:恋するロースタリー

詳しくは一話冒頭をご覧ください。⬇︎
L版SSメーカー sscard.monokakitools.net / Photo by Gaelle Marcel on Unsplash


3.

ルーティンとは動作の大小に関わらず肉体の駆動を確かめつつ己の胆力を日々高域に保つ為の手段であり儀式でもある。

一杯の珈琲抽出がそれだ。

「揺るぎない日常」を確約する無言呪文であればこそ、段取りを踏み外す不測の事態に見舞われた瞬間、やにわに丸腰でその日一日を過ごさねばならぬという不吉さが押し寄せる。
いくら弄り回しても着火の気配の無い給湯器から離れ腕時計を睨む。今から校外へ出かける余裕は無い。半ば諦めて教材を抱え私室を出たものの、早くも混沌とし始めた頭は方角を違え、廊下のどん詰まりでふと窓の外を見せた。
降りしきる雪に逆行する煙は、ほぼ敷地内と言っても過言ではない小さなロースタリーへと手招くように続く。実に利己的だが、そう思えた。


「おい豆屋!居るかね。」
「…先生、どうしたんですか。」

お早うございます。と爽やかに扉を開け放つ青年の背後に立ち昇る焙煎香が鮮烈すぎて眩暈する。

「すまんが火を貸してくれ。あちらの設備が死んだ。一杯飲みたいのだが、無理なら…失礼、」
「え、わ、わぁ!」

よほど飢えていたらしい。
飲めるはずのモノが手元に無く、芳しい香りだけ充満する建物の中で常に燻される人物を抱き寄せて深く息を吸った。

「 ———多少補えるかと思ったが、気休めだな。」

空気中に漂う成分を貪欲に吸収せしめんとして、続く虚しさに舌を打つ。
用済みと放り出された青年は、しばらく固まったまま、ゆっくりと奥を指差した。

「、キッチンがありますから…」

押し入ろうとして、肝心の豆やカップ一式を忘れて来た事に気づき諸手を上げる。散々だ。と、険しくなる表情を片手で覆い隠せば即座にどれでも好きな物を使って下さい!と合いの手が入るのだが、声の主は随分使い込まれ飴色に変化した古い焙煎機の元へと走り去ってしまった。

釜場とは打って変わって近代的な雑貨が点在するシンクには満水の電気ポットやコーヒーメーカーが都合よく配備されており、並んだキャニスターを適当に開けて吟味すると、あっさり二人分の珈琲を淹れてパイプ椅子に腰を下ろす。
とろみのある液体を一口、二口と啜る頃には始業まで三十分を残し、取り戻した平静に身をゆだねて働く青年の姿を遠目で追っていた。
時折、巨大な焙煎機に耳を傾け炉内を覗き、まるで楽器でも弾くように慣れた操作の手は頃合いを見極め流れて止まる。職人が日々研鑽の中で体得した必然の動きとは見る者を飽きさせない。
焙煎に関する知識など持ち合わせていなくとも分かる。彼もまた自分と同じく、一粒の豆に熱狂する類である事は確かだ。

ザァッと色良く焼けた豆が放出される音に思わず目を閉じた。


駆け寄る気配に正気を取り戻す。

「毎朝飲まないと調子が狂うんですね。」
「分かるのかね。」
「突然いらっしゃるから何事かと思いましたし、恐ろしく顔に出てます。何て言うか、フリークの年季が。」

中毒じゃないかな。と言い淀む焙煎士にマグカップを差し出した。

「ご心配なく。生憎、その分野で飯を食っているのでな。ああ、素人が淹れたモノで申し訳ないが頂戴した…君の腕もそこそこ確かなようだ。」
「素直に美味しいって言えば良いのに。お目が高い、一番良い豆選んじゃってるし。」
「先日の受講代で手を打とう。」
「先生みたいに珈琲依存が激しい人には本当ならこっちのデカフェをお勧めしたいんですけど。」
「馬鹿を言え。」
「明日までに直ると良いですね、給湯器。」
「…。」
「あの、…ポットサービスとか始めたらもしかして需要あります?」
「わざわざ御足労頂かなくとも、我輩が訪ねれば済む。定期購入者だ、丁重に売り込みたまえ。」
「此処はカフェじゃありませんからね。お構い出来ませんよ?」

ともあれ、ご贔屓に。
その言葉が新しい習慣の幕を開けたのだ。




To be continued…


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