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【研究と実践】表現者・ファンと炎上社会-女性と性表現2-に参加した

【オンラインシンポジウム】表現者・ファンと炎上社会 - 女性と性表現2 -
「公共編」Day.1  /「現場編」Day.2

女性と性表現というタイトルですが、むしろ表現そのものに対する偏見などに対してどう考えていくべきか、どう対応していくべきか、という話となっており、ようするに人権ってなんだろうということを強く考える機会になりました。

「Day.1 公共編」で特に気になったのは、公共性とは何か公共とは何か、という点。

公共とは、単純に考えると「不特定多数がアクセスすることができる場所」なのでしょうが、理論上の定義と現実の運用では必ずしも同様ではない。それを(意図的に?)当てはめてしまう怖さが現状ある。
不特定多数が行けるとしても現実ではほぼ行くことなないであろう場所は公共なのか? そういう事象をどう評価するのか。

今回のシンポジウムではこんな答えが出ています。

時と場合による

そりゃそうで、絶対普遍の答えなんてないのですよね。だからひとつひとつ話し合っていく必要がある。これって至言だ、と思いました。

もうひとつ。人権、差別は一方向ではないという話。
自分は仕事がら人権に関する学びの機会が多いのですが、次のような話を言われたことがありました。

表現の自由は大事。しかし人を傷つける場合には制限されるもの。

自分はそりゃそうだと思いつつも違和感を覚えたのですが、今回、その違和感の理由に気づきました。
傷つけられる人への視点が大事なのは大前提ですが、その人が絶対的弱者であるという前提の話になっているという点です。

絶対的弱者というものは存在しない。異なる視点でみると被害者が加害者になっている場合も当然にあるということが抜け落ちている。

相対的なものごとの捉え方を忘れてはならず、自己の考えが絶対的正義でもなく、ひとつことを捉えて一般解にしてはならないということです。

だからこそ対話が必要なのだと思いました。

「Day.2 現場編」は、現場でのより生々しい炎上当事者の話にインパクトを感じました。炎上って勝手な思い込みによるものであり、突き詰めると差別意識そのものなんだなあ。

コスプレの男装女装について、コスする人の身体は素体でしかなく性別という概念がリセットされている。だから女性の女装という言いかたも普通に使われているという話は興味深かったです。

シンポジウムの論点とはズレるのですが、個人的に「萌え絵」の定義が気になりました。
自分は「萌え絵」とは、もともと性的要素を持たない、そういった要素を極力排除して成立していた概念であると捉えています。
「萌え絵」≠「美少女イラスト」、「萌え絵」≠「アニメ絵」なのです。
もちろん、その後「萌え絵」という言葉が社会一般でも使われはじめた際に、非オタクが、当初の絶妙な差異を認識できないまま十把一絡げに語られるようになった。
結果として、上述の要素が加わっていき、美少女イラスト、アニメ絵全般を指す言葉に変質した。
という歴史認識です。

現在はもはやあらゆる絵が萌え絵要素となっているため、逆に萌え絵という言葉そのものが死語になりつつありますが、歴史は誰かが検証・考察しないと、と前から思っていたところです。(自分でやるしかないのかなあ)

ちょっと脱線してしまいました。

2日間を通して、各分野からの現状報告は、自分にとって知っているようで知らなかった今の動きをつかめるいい機会でした。
というか、前回のシンポジウムから、さらに世間の動向がまた変わってきていて、本当に時代の動きがはやいったらないです。

はやい、ということは物ごとの検証の時間がとられないままにコトが動いていくということであります。考えることを忘れないようにしよう。そう思ったシンポジウムでした。

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