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旅行に行ってもお土産を配ることはしないのだけれど…

旅が好きだ。

本気の旅好きのひとからみると鼻で笑われるかもしれないが、遠近取り混ぜてだいたい年に6回くらい、平均すれば2か月に一度はどこかに旅に出ている計算である。

さて、ここからが本題。

自分は旅に出かけてもお土産は買わない。
正しくは職場や家族、友人に向けたお土産は買わない

そりゃ若いころは買ってきてはいましたよ。でも、いつのころからは覚えていないが買わなくなっていた。
旅程が慌ただしくて買うタイミングを逸したとか、いい感じのお土産がみつからなかったとか、そんなことが幾度かあったことは覚えているので、それがきっかけなのかなあ、とも思う。

で、いつのまにかお土産に対する意識自体がなくなっていた
旅先で誰かのために土産を買おうという考えが頭に浮かんでくることはない。完全に発想外になっている。

だから、同僚や友人などが夏休み旅行のお土産を配っている姿をみたときに「ああ、そういう気配りも世の中にはあったなあ」と思い出すばかり。

うーん、それでいいのか? 社会人として…

と、ほんのチラッと思いはするが、いざ旅先ではその感覚は忘れ去られている。

意識の問題だけではないのかもしれない。
自分は旅に出る回数自体が頻繁なので、いちいち旅に出るということを他者に話すこともなくなっている。
だって、夕食になにを食べるかなんていちいち宣言しないでしょ? 自分にとって旅はそれくらい普通のことになってしまっている。
それは旅が非日常のことではなくなりつつあるわけで、ある意味もったいないのかもしれないけれど、それはまた別の話。

では自分がお土産をもらうときはどうなんだ。ということだが、正直なところさほどに嬉しくはない。自分は間食をしないので(空腹ならば空腹感を楽しむ派なのだ)、一時期は「お気持ちだけいただきます」と断っていたときもあった。
最近は「さすがにそれは悪いだろうな」という考えに変わり、一応は受けとることにしている。社会人プレイである。
が、とにかくお土産をやりとりすること自体に対してそんなに価値を見出してはいないのだ。

こんな考えかたのひとって、もしかして自分だけなのかしら。

と思い立ち、ネットで軽く検索してみると思いのほか、お土産買わない派もいた。
また、買う派/買わない派の割合をアンケートしたWEBサイトもあったりして。このテーマって存外にみんな気にかけているのだなあ。

で。その割合だが、そのサイトでもだいたい10~15%となっていた。つまりは、4、5人に一人はお土産買わない派。自分としては意外と多い印象である。
また、お土産を買わないひとも「旅に行くことをいわない」等のコメントがみかけられて、同志的あるあるシンパシーも大いに感じたところである。

それはそれとして、自分が興味深いと感じたことがあった。
お土産を買わないひとは、その理由も含めて表明しているが、お土産を買っているひとの話はほとんど見かけない。買うというひとのコメントはあっても「あなたはどっち派?」という問いかけに対する回答が中心。
買わない派のような「自分はこうだ!」という宣言的なものはないのだ。
むしろ、自分は買うけれど、実はちょっと苦痛。みたいな隠れ買わない派の声だったりする。

なぜこのような意見表明の傾斜構造を生んでいるのか。かなり興味深い。

自分も含めてなのだが、やはり少数派は少数派としての思いがあってそれをいいたいということなのだろうか。それがうしろめたい言い訳の裏返しなのかも、という心理込みで。

ようするに買わない派は買わないことに対して意識的なのだろう。

逆に買う派は、ぶっちゃけお土産を買ってくるという行為に対して深くも浅くも考えちゃいないというだけなのでは? と、うがってみたりもする。

さて、ここまでいろいろと理屈をこねてきたが、実はそもそもの前提である「お土産みやげとはなにか」については、言っていないことにお気づきかと思う。

ここまで語ってきたとおり、自分はお土産は買わない派なのだが、自分に対しての土産は買うんだよなあ。たとえば、その土地の地酒とかご当地食材とか。とすると土産を買わない派というのはダブスタンダード、張り子の虎なのではないか?

これについては結局「土産とは」という根幹的な定義があってこその宣言なのだ。

辞書で確認してみた。

『土産とは、一般的には知人などに配るため旅先で得る品』 だそうだ。

つまり自分へのお土産という概念はそもそも存在しない。だから語るべき課題もない。

というわけで、自分はお土産は買わない派です。

と、これからも正々堂々と表明していこうと思うし、その理由もこれみよがしに語っていきたいと思う。ウザ絡みと言わば言え、だ。

初出 24年8月2日


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