伊豆峯次第 拝所一覧④〜河津編〜
37.清瀧大権現
38.弁財天女
見高浜の中央から尽き出た岩山の上に鎮守。ウバメガシに囲われた境内は、小さいながらお手入れがよく行き届いており、集落の人柄が鏡のように映されている。
応永12年(1405)江ノ島から移されたとされ、海上安全、安産守護、福寿長久の福神として信仰。地元では「弁天さん」として親しまれる神社だ。牛と蛇の像が印象的、まるで世界の信仰の歴史を顕現させているようだ。
見高を境に、南側は海底火山の噴出物が隆起した地層、北側は陸上火山の溶岩が覆った地層であることが、見高のゴロタ浜を歩くと実感できる。
また、それを裏付けるように見高は伊豆半島東海岸のウバメガシ自生の北限とされている。ウバメガシは暖地の海岸地帯に多く、北側の地層・東伊豆町・伊東市・熱海市の海岸では見かけないことから、土地の成立ちが植生にも関わっていることがわかる。
琴海神社
河津町見高386
39.御灼之明神
河津駅から海へ向う大通りを歩いて200m程、公民館の裏手に鎮座している。祭神は文字通り須佐之男命(スサノオノミコト)。
棟札の記録によると宝永から江戸時代は牛頭天王社であり、「須佐乃男神社」と改めたのは神仏分離令による明治時代からである。
伊豆諸島三宅島の御笏(おしゃく)神社は、「佐伎多麻比咩命神社」として延喜式内社に数えられており、多くの合祀社・境内社があるが、牛頭天王神社もその一つで、毎年賑わう「牛頭天王祭」が行われている。
これが直ちに御灼之明神と繋がるのかどうかは分からないが、「笏」というキーワードから島々との関係を想像させる。
須佐乃男神社
河津町浜109-2
40.若宮
現在は来宮神社に合祀されている。
川津来宮神社
河津町田中154
41.薩山大明神
「静岡県の中世城館跡」によると、河津城跡の西麓の姫宮神社付近が、蔭山氏の居館跡であり、以前には蔭山神社の小祠があったとされる。
現在は来宮神社に合祀され、河津城を築城したとされる蔭山勘解由(かげやまかげゆ)の供養塔なる石塔が長福寺に伝えられている。
川津来宮神社
河津町田中154
42.小御堂
伊豆横道三十三観音霊場巡礼の14番札所。本尊は千手観音の立像。河津町役場から北へ、約300m歩くと小峰堂に到着する。
伊豆には西伊豆、松崎、河津、下田、南伊豆の三十三ケ所霊場を巡る風習がある。800年前、伊豆に流されていた源頼朝が文覚上人の説得を受けて源氏の再興を決意、その成就を祈りながら「三十三観音」を巡ったのが始まりと伝えられている。
小峰堂
河津町田中268
43.来宮大明神
創建不明、和銅年間(708〜715)に再建され、平安時代に作られた「延喜式神名帳」という書物にも記されている歴史ある総鎮守。正式名称は杉桙別命(すぎほこわけのみこと)神社。
ご神木として祀られる樹齢1000年以上の大楠は国の天然記念物に指定されている。天に向かい青々と葉を広げている姿は圧巻、お社のランドマークとなっている。
この神社には、伊豆の七不思議に数えられる「酒精進・鳥精進」と呼ばれている神事がある。
遠い昔、お酒が大好きな来宮神社の神様・杉鉾別命(すぎほこわけのみこと)は、酔っ払い野原で寝てしまったところ、野火に囲まれ絶体絶命となる。そんな時、鳥の大群が河津川の水に身を浸し、雨の様に水を降らせ火を消し去り、助けられたという
これが言い伝えられ、現在も河津では毎年12月18日~23日までは、酒を飲まない、鳥を食べない・卵を食べない風習があるそうだ。
最後に私見を述べる。
来宮神社は、小田原から伊豆半島南端にかけ相模湾沿岸に点在している。海より流れ来る神(来宮)、樹木の神(木宮)、忌み事を課す神(忌宮)など言われているが、中でも私が注目したいのは「海より流れ来る」いわゆる寄り神信仰だ。
伊豆半島東海岸では漂着伝説、大黒さんの愛称で知られるスサノオの息子・オオナムチ、大磯の海岸に円鏡が出現など。海からやって来る要素を多く見ることができる。宇佐美・春日神社の御神木から戦船を作る話もまた、木宮を通じて海を連想させる。
そして、伊豆山(走湯)権現の縁起である「走湯山縁起」にはキノミヤ最古の記録がある。その記録には来・木(楠山)・酒とキノミヤの三要素がすでに揃っているのだ。
また、河津・来宮神社の杉桙別命(ほこわけ)は、火子別(ほこわけ)と字をあてることにより「火の神」の性格を持たせ、先述した鳥精進・酒精進を怠ると火事となり、伊豆山権現・火牟須比命へ結び、伊豆諸島の噴火への畏怖を連想させる。
キノミヤ信仰、三嶋信仰を取り込む伊豆山権現、すなわち伊豆山修験が絡みつく三つ巴の交わり。河津来宮神社は知るほどに奥が深い。引き続き伊豆峯辺路を通じて、掘り下げていきたい地域の一つだ。
川津来宮神社
河津町田中154
44.東大寺
峰温泉街にある金烏山東大寺(きんうざんとうだいじ)は、天正元年(1573)に5つのお寺と秋葉神社を吸収して創建された。本尊は十一面観音。
伊豆横道三十三観音霊場第15番札所。境内には簡素な観音堂が建っている。
熊野信仰から太陽族(金烏の子)の東の大寺と言う意味を持っている。日本神話によると、神武天皇を案内する八咫烏(やたがらす)は天照大神が遣わしてる。熊野から太陽の化身・賀茂氏がやって来たのだろう。
河童の石像がある。まんが日本むかしばなしの舞台にもなっている700年の歴史を持つ古刹、同じ地域の河童の寺こと栖足寺が由来かは引き続き要調査。
東大寺
河津町峰382
45.姫之宮大明神
創建は不明ながら奥伊豆最古と言われている。延喜式神名帳の式内社「佐々原比咩命神社」御祭神は笹原姫命。境内は集落の鏡。良く手入れされ、地元の方々に大切にされているのを感じる。
河津川に面した湿地帯にある姫宮神社は、しばしば洪水で流されては再建を繰り返し、代々来宮神社の法印に祭祀されていたと伝わる。
また、現在跡地付近は縄文時代の終わりから、弥生、古墳、奈良、平安時代と続いたとう姫宮遺跡である。
姫宮神社
河津町笹原314
46.湯之堂地蔵尊
47.仙人石
48.南善寺
天平感宝元年(749)に行基が奈良時代に創建された仙道山那蘭陀寺(ならんだじ)という大寺があったが、永享4年(1432)の山崩れにより一夜のうちに埋没してしまったと伝えられている。
天文10年(1541)、南禅和尚が再びお堂を再建し、山津波で地中に埋まった仏像などを掘り起こしてこれを安置。南禅寺(なぜんじ)となったとそうだ。
県内最古の平安初期の仏像群があるにも関わらず住職は不在のため、お寺の敷地内に伊豆ならんだの里 河津平安の仏像展示館が建てられ、平成25年(2013)より公開された。
天狗のとまった大椎。ある時、南禅寺の和尚さんが京都の山奥にある山伏の霊場に修行に行った。ところが、目的地に着いて忘れ物に気づいた和尚さん、遠い伊豆まで取りに行くことも出来ず思案に暮れていると、天狗が取ってきてくれたという言い伝え。
「明日の朝までに持ってきてやろう」
「南禅寺は大椎が目印です」
南禅寺
河津町谷津129
49.川津殿之宮
日本三大仇討ちの一つ「曽我物語」の曽我兄弟と、その父・河津三郎祐泰の分霊を合祀した神社。
河津三郎が住んでいたと言われる館跡の付近に建てられ、その証拠に「館跡」という地名が残されている。
河津三郎像の前には手玉石と言われる力石が据えられている。朝夕の鍛錬に使ったという力石の重さは約320キロ。手玉石とは「軽く手玉に取っていた」ことを由来し、いかに三郎が怪力だったのかわかる。また相撲が非常に強く、相撲の決まり手「河津掛け」を考案したと言われている。
河津八幡神社
河津町谷津375
50.天満宮
現在は河津八幡神社に合祀されている。
河津八幡神社
河津町谷津375
51.木之大明神
現在は河津八幡神社に合祀されている。
杉桙別命(すぎほこわけのみこと)と木崎明神が、河津の岬(現在の鬼ヶ崎)に上陸。木崎明神はその岬に留まり、杉桙別命は内地へ。現来宮の地に鎮座された事から、木之崎神社は来宮神社の下宮とされた。
河津八幡神社
河津町谷津375
52.天魔駒神
53.子安大明神
式内社・奈疑知命神社に比定されている古社で、創建年代は不詳。十一面観音が本地物である。伊豆の海岸沿いで海を背にする神社は珍しい。どんな意味があるのだろうか。
明治40年(1907)に山神社・天王社が合祀されている。縄地は奈疑知(なぎち)から転訛したもの。伝承によれば、縄地村・なぎの杜より現在地に遷座したという。
筋肉質のスタイルの良い狛犬だ。
本殿の裏には磐座があり、子安の「乳の神様」が祀られている。
縄地の金山があったので、全国から坑夫が集められていた。隠れキリシタンは子安明神をマリアに見立て密か拝んだという伝承がある。
子安神社
河津町縄地1
54.天満神
現在は子安神社に合祀されている。
天神社
河津町縄地1
出典:伊豆修験の考古学的研究ー基礎的史資料の再検証と「伊豆峯」の踏査ー
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