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吉田 満と久通


 何年か前に、『戦艦大和の最期』を書いた吉田満が大和生還後に赴任した高知県須崎市の久通を訪れたことがある。
作家の古山高麗雄が『戦艦大和の最期』の講談社文芸文庫版の巻末に吉田の作家案内を書いている。古山は、はじめに、自分自身はいやいや戦場に運ばれたまま生還した下級兵士であると断り、作者の吉田は東京帝国大学法科を繰り上げ卒業して、幹部候補生の試験に合格し、士官として自己の意志で死地としての戦場に赴き、予期せぬ生還をした人であると、吉田とは戦争に対する立場や考え方の違いがあることを、はっきりと明かしている。そしてその上で「私は吉田さんの文章に、プロ、アマを問わず、文章を書く人にありがちな、見てくれがまるでないことを畏敬している。文は人なり、か。文章に野卑なものがない、ということは、人にもそれがないからであろう。」と書いている。
『戦艦大和の最期』を読むと、大和轟沈の凄惨な極限状況の真実を、文章表現という「フィクション」で伝えようという著者の志が圧倒的に迫ってくる。生き残って、この叙事詩を書き上げた吉田に大和から生還した人たちの中から、事実を歪めねつ造していると非難する人もあった。大和の生還者の他にも「事実」誤認を指摘する人はいる。私は、吉田は毀誉褒貶など一顧だにせずに書いたことを確かなことと信じて疑わないし、共に戦った死者たちとともに、戦前から戦後へ、自分の全てをかけた生を問い直すことしか念頭にはなかったと思うばかりである。吉田への批判に出合って、この作品から受ける感銘が損なわれることは少しもなかった。「事実」であった筈がないと、著者の吉田が厳しく責められる、救いの船に群がりすがりつく生還者を、船の転覆を避けるために、手指を切りつけて海につき落としたところなどをどう読むか。私には、救い切れぬということは、精神的には自分が命を奪ったのとかわらないという自責の念を表現としたものとしか思えない。『平家物語』の時代と近代戦の時代が違うのは自明であるが、吉田の表現行為の倫理がどのようなものであったかということは、書いたものがそのままに示していると思う。人が戦いの中でどう生死に処したかは、それぞれが直面した「事実」が明らかにできるばかりではないだろう。直面する現実と遠く時代を隔てた時代の戦争の歴史から事実に迫ることも、ひとつの道であろう。
吉田は大和撃沈から生還して後、高知県須崎湾突端の久通村で対艦船電探基地の建設を命じられて赴任した。そして、その村で敗戦を迎えた後も、復員はせず、乞われて村に止まり、分教場の代用教員をつとめていた。
鶴見俊輔がこの敗戦後の吉田の身の処し方について次のように書いている。「終戦の報道を海岸の基地できいた時、吉田満の最初の反応は、すぐに両親の下にかえって平和な市民生活にもどることでなく、この基地そのものに司令とともにとどまることであった。徹底抗戦でもなく、敗戦の時点ー戦争と平和の境界の一点にとどまって、敗戦の意味を納得のゆくまで考えることだった。ここに吉田満によって十五年戦争時代を通しての最もすぐれた叙事詩が書かれた根拠がある。この村の村長夫妻と親しみ、村の小学校の仕事を助け、村の子供たちと遊ぶ中で、敗北のイメージは明らかに定着した。このイメージをもって米国占領軍の検閲方針に対してもゆずらず、戦後日本の戦争時代抹殺の空気に対してもゆずらず、彼は戦争の唯中における軍国主義・超国家主義の転向という主題を抱き続けた。……」(『共同研究 転向』第2章第4節「軍人の転向」鶴見俊輔)。
 結局、吉田の居場所が知れ、吉田は惜しまれつつ久通村を去ることとなった。吉田は海軍の秩序から離れ、代って日本銀行につとめ、銀行員として折り目正しく生きた。鶴見俊輔は、吉田満が会社員としてまっとうに生きるだけでは、人間共通の正義の問題は解けないという分裂した意識を抱き続けることで、この戦争の記録を書くことで、戦後の日本の会社員生活の問題状況をもあざやかに描いてみせたと言う。日本が敗戦によって、軍国主義から平和主義になったという保証はない。軍人たちが戦前に忠誠を問われたことを戦後は会社員や文官が問われているだけだということに吉田は目をつむってはいない。福沢諭吉の「立国は私なり、公にあらざるなり」という言葉が明治維新から亡国の敗戦にいたったこの国でまだ問われているとも言えよう。
 吉田の戦前と戦後の境界となった久通村への道は県道から林道かのような小道に入り、迷ったかと思う、細く、くねくねまがった山道を分け入って峠を越し、太平洋に向って、急峻な道を下ったところである。切り通しを過ぎると、すぐに左側の眼下に太平洋が洗う磯と小さな村が見えてくる。私は、やっとの思いで集落に下りたのを覚えている。吉田が子供たちを教えた分教場はすでに廃校になっていて、漁協の事務所とコミュニティセンターを兼ねた建物になっていた。集落はすでに過疎と高齢化が極まり、一本釣りの漁業と磯釣りの拠点の集落となっているようだった。吉田は久通に赴任した当時、少尉として80名ほどの部下と、山道に入る 手前の押岡という集落の民家に分宿していた。毎日、山を越えて久通に通い、村の人たちを動員して、レーダー基地を造る土木作業を指揮していた。そして敗戦となった時、ここに隠れていよとすすめる村人の誘いに応じたのである。当時は集落の前は、砂浜が広がり、今の防波堤の場所に松が群生していたという。防波堤が出来て今は当時の面影は全くない。吉田は代用教員をしていたときの様子を次のように記している。「残暑の土佐の灼けるような太陽が高く上がらないうちに始業の鐘を三つ鳴らす。すると三年生以下の子供たちが集まってくる。十二、三人の生徒は授業のあいだ、ひとりも先生の眼から視線を外そうとするものがなかった。体操の時間は駈け足で海まで引率してゆく。浜辺に立つと、見はるかす限りの砂浜と白波の線を厚味のある松林の群落が分断していた。
 潮の香りが慕わしくて、私はしばしば野天授業の時間を延長した。海を背にして波打ちぎわにあぐらをかく。子供たちも列を整えてあぐらをかく。彼らの眼に入るものは、そと海につらなる一本の水平線と私のほかにはなかった。」(文藝春秋1975年3月号「伝説の中のひと」より)
結局、吉田の所在が知れ、家族のところにもどることになる。久通を去る吉田少尉を、敗戦直前に苦しい土木作業を手伝った約20名の女子青年団員全員が久通から峠を越え、当時は橋がなかった押岡川の渡し場まで見送ったうだ。代表の女子の一人が櫓を漕ぎ、一人が日傘をさして吉田と舟に乗った。吉田は全員が歌う「別れ出船」の歌声が川面を追いかけてきたと書いている。渡しがあったのは今の大峰(おおぼう)橋の辺りという。
吉田が「文藝春秋」に載せた随筆を読んだ村の人が、なぜ黙って来て、帰ったのかという手紙を吉田に寄越した。吉田は、その手紙に応えて須崎を再訪し、そのときのことも文藝春秋に書いた。
私は、久通を一度訪ねたきりである。

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