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医療現場の変遷と学校のオープン化
ある授業の議論の中で、「学校のオープン化」という話が出た。
学校は生徒にとっても先生にとっても閉鎖性が高い場所だ。
もっとオープンなものになった方がいい。
地域に開放し、地域の様々な人たちが行き交うようなコミュニティ形成の場になればいい。
空いている教室を使って会社や地域コミュニティのミーティングを出来るようにしたらいい。
部活やクラブ活動の面倒をみるのは、地域の人たちに肩代わりしてもらう。そうすれば子供たちは社会との接点を多く持つようになる。
子供たちが多くのコミュニティに所属することは、それだけアイデンティティを増やすことにも繋がる。
もしクラスで孤立したりいじめに遭ってしまったとしても、クラスというモノを相対化できれば、追い詰められる可能性も低くできるだろう。
そして先生たちの負荷も減らせれば、教育の将来を考えるリソースを確保することができる。
僕はこれを聞いて、あぁ医療現場の世界と似ているな、と感じた。
もともと医者という職業は、医学的に病気を診たり薬を処方するだけでなく、家庭や職場など患者さんを社会的にも捉え、医学的見地以外でもいろいろ口出すものだった。
時には患者さんを自分が知ってるコミュニティに誘うこともあった。
しかし、医療の専門化・細分化が進むにつれ、医者は医療を「医学的に病気を治す」と捉えるようになり、そこに特化するようになっていく。
そして社会的な部分はカウンセラーやソーシャルワーカーなどが担うようになり、それらの役割は分断されていった。
しかし近年になってまた、それらを見直す動きが出てきている。
社会的処方という考え方は、医者が患者に対して地域コミュニティを紹介するという取り組みを生み出している。
いわゆる全人的医療という考え方では、医者やスポーツインストラクター、心理カウンセラーなど健康にかかわる様々な人たちが連携することの重要性を強調している。
教育の世界でも、同じような流れが起きているように思えてならない。
江戸時代、学校の走りである寺子屋はもともとお寺でやってたわけだが、そこは単に勉強を教える場ではなかった。
地域住民が集い交流し合う、まさにコミュニティ形成の場だった。
しかし教育内容が制度化・高度化されていくとともに、教育現場はコミュニティ形成の場としての役割を少しずつ失っていったのではないか。
だから、もし学校が再びコミュニティ形成の場としても機能するということは、まさに医療現場と同じ流れを辿っているような気がして、とても自然に感じるのだ。
医療業界はこの問題以外にも、コミュニケーション論や情報発信の仕方など様々な面で先駆的だ。
その理由はいろいろあると思う。業界の構造の違いもあるだろうし、何となく意識の高い人達が集まりやすい世界である気もする。
でももう一つ大きな特徴は、医療は誰しもが関わる領域であり、多くの関心を集めやすいということだ。
それ故、大きなムーブメントや変革のリソースが潤沢なのだと思う。
国民のほぼ全員が高い当事者性を持っているということが、他の業界を先駆けしている源泉になっているのでは、と感じる。
僕は教育関係者ではなく、独身で子供もおらず、教育問題に関しては当事者性が極めて薄い人間だと思う。
教育についてのニュースを見たり人の話を聞く機会があっても、それで何かしようとはならない。
例えばシングルマザーへの支援などの話も、現状を知るたびに大事だよなとは思いつつも、じゃあ実際に何か支援したり寄付したりということをしたことがない。
それよりも、当事者性の高い震災関連のボランティアや寄付の方にいきがちだ。
当事者のみが問題にかかわり続けるというのはどういうことか。
当事者以外も関わるというのは何を意味するのか。
その先にどんな景色が見えてくるのか。
そんなことも考えていきながら、みんなと一緒にもう少し、この旅路を歩んでいきたいなと思う。
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