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過去は過去だの話

◇どこにも居場所が無いような気がする。

◇完璧主義である。

◇やりたいことが分からない。やりたいことが有っても出来ない。最初の一歩が出ない。

♢言いたいことが言えない。ケンカができない。

◇依存症である。

いつも更新を楽しみにしているKayoko_Suzakiさんのnoteに、上記にあてはまる場合、愛着障害かもと書いてあった。
昔なら、たぶん全部当てはまってしまったけれど、今はあまり当てはまらなくなってるなあと思った。

健全な愛着を育むには、生後半年から一年半の間に、お母さんにギュッと抱き締められる必要があるそうです。

私の母は子供に対してとても厳しい人だったけど、それは愛情と信念の強さからくるものだったと思う。
おかげで、確かに私はタフな大人になれたし、今ではお互いを尊重して、共に人生を楽しむ気楽な家族でいてくれている。

今は人生の全ての過程が、必要なものだったと思える。
しかし私は幼い頃、大人の顔色をうかがいながら、心のどこかで彼らを軽蔑しているような嫌な子供だった。

感情をうまくコントロールできない子供の頃は、言いたいことが暴発したり、溜め込んだ感情がよく分からなくなることがままあった。
突然猛烈怒ったり、泣き出したりして、その様子を遠巻きに眺める友だちとの距離を感じてとても怖かった。

今でも自身の感情を感じたり、表現することは苦手だ。
そのせいで溜め込んだものが知らず知らず体の変調につながっていることは、瞑想やヨガを通して学んだ。

大きく私に影響するようなショッキングな出来事があると、感情がよく分からない。
その時はただ呆然とするだけだ。
誰とも話さず、独りにしといてほしい。
たぶん傷ついた心身を癒すために、サナギのような状態になっていると思う。

うまく回復して、ネガティブな感情と向き合うことができるようになると、不意に腹が立ってきたり悲しくなったりする。
でもその時の辛い経験をやり直せるわけではないので、また嫌な感情を抱えたまま、閉じ込めておくということをずっとやってきた気がする。

記憶の底にある感情を味わい尽くして、まあ仕方なかった他にやりようがなかったしそういうことはある、とうまく納得して受け入れられるようになると、過去のことも気にならなくなる。
記憶は記憶として、そこにあるし何もないとも言える。

先日、ホワン・フイチェン監督のドキュメンタリー映画「日常対話」を見た。
監督と、同姓愛者である母親との過去のトラウマを見つめ直し、新たな関係性を模索する過程、その丁寧なインタビューが素晴らしい映画だった。

そこで語られるのは、同姓愛への寛容と不寛容、苛烈な家庭内暴力、人としてのプライド、傷つき封印してしまった記憶。
激しくも辛い内容に、劇場では他の観客のすすり泣きが聞こえていたけれど、私は平気だった。
これは癒しの過程であって、同情するものではなく、称賛するものだと思えた。

映画の最後の方のシーンで、母親の親戚兄弟たちとかつて彼らが暮らした古い家の廃墟を訪ねるシーンがあった。
そこには監督や母の古い写真や、思い出がある。
色々探索して、古老たちに昔の家を訪ねてどうでしたかと監督が聞くと、別に何もない、感傷的になることもない、過去は過去だと言い切る。
素晴らしく強い人の姿だった。

お母さんがベランダや路上でタバコをくわえて、何ともいえない顔をして座り込んでいるシーンもとても良かった。
台湾の空気が恋しくなった。

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