見下している暇はない
他人を見下しがちな人間だった。
よく知りもしない人の、一つの挙動を見ただけで判断していた。
「あーそれじゃダメだね」とか「この人ばかだな」とか心の中で思っていた。
言うまでもないけれど、ぼくにはその人のバックグラウンドも、そこにたどり着いた経緯も見えていなかった。見ようとしていなかった。
簡単に相手を見下してしまう人間は、実はいちばん自分に自信がない、という構造にも気づいていなかった。
「見下す」のは怠惰な行為だ。
よく知りもせず、大した根拠もなく、相手を下に見る。
その奥には「自分のほうが優れた人間でありたい」という願望心理が隠されている。
優れた人間でありたいという願望は悪いことではない。
問題なのは、見下しがちな人の根拠は往々にして、正当ではないことが多いところにある。エビデンスが超絶に希薄なのだ。
彼らは「見下す=努力しないで優勢に立つこと」自体が目的なので、フェアな根拠なんて必要としていないのだ。たとえ誰かに「いや、その判断は客観性に乏しいんじゃないかな。もっと判断材料を集めてみようよ」と助言したとしても、彼らは聞く耳をもたないと思う。
仮に相手が本当にどうしようもない人物だったときも、見下す(=相手を下に見る行為)なんて必要ない。ただ素通りすればいいだけだ。それなのに、いちいち上下関係(そんなものがあったとしても)を確認するなんて、時間のムダではないか。
他人のことを見下す人は、「自分を安心させる材料」を欲しがっているだけ。過去の自分もそうだったと思う。
裏を返せば、材料がないと不安になってしまうということだ。自分に自信がないから、相手を下に見て落ち着こうとする。
見下す人は、なんとなくフワッと「こいつバカだな」と思えれば、それで満足なのだ。客観的な根拠は不要。やはり知的な行為ではない。
見下す人の心理
ここまで書いて、見下している人を「見下している」ような気分になんだかなってきた。
でもぼくが言いたいのは、相手を見下そうとしている自分に気づいたら、自分の胸に手を当てて考えたほうがいいということ。
見下す判断をしがちな心の裏側には、「相手を下にしないと不安な、自信のない自分」がいるのだ。
他人を見下してるヒマはない。
そんなことよりも、自分ができることに集中したほうが、よほど生産的だ。
追記
とはいえ、人間はそれほど強くも高尚でもない。ときには「根拠もなく相手を見下し」て、自分を慰めることがあってもいい。
ただそのときも、こっそり思ったほうがいい。
「自分はこの(見下すという)行為を、やむを得ず行っている、本来なら褒められたことじゃないからね」と思いながら、こっそり見下すくらいでちょうどいいと思う。
さらに追記
今の若い人たちは、他人の「見下す感情」に敏感な気がする。
「見下すのは下品」みたいな価値観が、わりとデフォルトで行き渡っているような印象がある。
それが自分に向けられた感情じゃなくても、誰かが誰かを見下す言動をとっているのをみると(SNSでも)、その見下した人の評価は自動的に下がる。そういった風潮があるように思う。
傷つく人がいなくなる面においては、良い世界になっていると思う。
その一方で、負の感情を持つことすら抑制されている、窮屈な世界になったとも言える。
ネット広告で表示されるマンガ(スカッと系というらしい)も、抑圧された若い人たちのガズ抜き的な存在になっているのかもしれない。
そうなると、今度はかえって「感情を押さえつけないで、どんどん見下したらいいじゃない」と逆のことを思えてきたりもする。
人間って難しい。
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