「車輪の再発明」を笑わないのが豊かな社会では?
「車輪の再発明」という言葉をご存知だろうか?
すでに完成しているモノを、そうと知らずにイチから発明してしまう、という意味の慣用句だ。
プログラムとかデータの世界で使われることが多いらしい。
たとえばあるプログラマが、時間をかけてコードを完成させたけど、実はすでに同じような仕様のコードは別の人が完成させていた、と言った場合に用いられたりする。
「がんばったけど、時間と労力のムダだったね」という(あまり好ましいとは言えない)意味がある。
もっとハッキリいうと、ちょっとバカにしているニュアンスがある気がする。
「車輪の再発明」はムダなのか?
でも、ぼくは思う。
「車輪の再発明」って本当にムダなのだろうか?
がんばって作ったものが(結果的に)2番手だったとして、その努力はムダだったのだろうか?
ぼくはそうは思わない。
むしろ、素晴らしいと思う。
世界中の発明家が、こぞって車輪を再発明したっていいじゃないかとさえ思っている。(それはそれでカオスだけど)
そこには「自分のアタマで考えて新しいものを作ろう」という姿勢があるからだ。
ゼロ→イチの精神。
たとえその発見が既出だったとしても、そのイノベーター・スピリッツは称えられるべきだ。
「まだないモノを自分で生み出したい」という姿勢を持っている人に向かって、「徒労に終わって残念だったね」というネガティブなコトバをかけるのは間違っている。
何が足りなかったのか
とはいえ、
既存のモノを(知らずに)イチから作るのは社会的にみれば有意義じゃないよね、という価値観も理解はできる。
せっかく手間をかけて発明するのなら、まだ誰もやってないことに取り組んだほうがいい、というのは確かに正論だ。
「車輪を再発明してしまった人」に足りなかったのは何だったのだろう?
「外の世界とのつながり」かもしれない。
あるいは「過去から学ぶこと」かもしれない。
知らずに車輪を再発明してしまった人は、世間の動向をあまり見ていなかったという意味で「井の中の蛙」と言えなくもない。
巨人の肩に乗る
知らずに車輪を再発明してしまった「アンサング・ヒーロー(賛美されない功労者)」は何をするべきだったのか?
それは「先人たちに学ぶこと」だと思う。
関連書籍を読んだり、その分野に詳しい人から話を聞く機会があれば、すぐに
「ああ、それは”車輪”といってね、以前に〇〇という人が発明しているよ」
と指摘してもらえたはずだ。
そうすれば、”車輪ありきの地点”から、もっと新しい発明ができたかもしれない。
先人たちの業績の上に自分の成果を積み重ねていく、という意味で「巨人の肩に乗る」という比喩がある。
「車輪の再発明」をしてしまった人は ”巨人の肩に乗ること” を軽んじていた可能性は否めない。
おわりに
「車輪を再発明した人を笑わない社会」は豊かだと思う。
世間的にまったくのムダなものに時間を費やしてしまった人が
「よく作ったね!グッジョブ!」と称賛される世界であってほしい。
もし自分の子どもが「車輪の再発明的なこと」をしたら、そのときは全力で拍手を贈りたい。
ぼく自身も、徒労を恐れずにゼロ→イチを生み出す姿勢を持ち続けたいと思う。
先人たちの功績を忘れないようにしながら。
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