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いつでも、だれとでも

そろそろ、時空の歪みについて話したい。


子どもが言葉を覚える過程はとても興味深い。特に時制。
例えば、昔、この前、昨日、前に、このあいだ、ちょっと前....
など日本語の時制は特に曖昧でややこしい。

子どもが昨日遊びに行った場所を「昔行ったことがある」と言うのを聞いて、時制の感覚って説明がむずかしいと感じる。この時制の感覚は生きていくなかで慣れるしかないと思っていたのだが、最近は「感覚のままに時制を表現してもらうのも素晴らしい」と考えるようになった。

そもそも無意識に遣っている「時間の定義」はかなり曖昧な気がする。

例えば、午前0時を過ぎたら一般的には「明日」になるわけだが、自分の感覚としては「眠りについたとき」が明日になるほうがしっくりくる。寝たら今日が終わる感じ。

こんなふうに時間の定義と体感はかなり異なる。

「昨日」も「昔」も同じ時間軸の上にあるけれどその距離は僕ら自身で相対的に決めて良いと思う。そうすると、過去に起きた出来事も昨日のように心に呼び起こすことができる。

例えば、過去の恥ずかしかった経験。

中学生の頃、社会の授業。先生がクラス全員に「1964年に日本で起こった大きな出来事は何か?」と質問した。
恥を知らない(今も知らない)僕が手を挙げると、先生が僕を指名した。
僕は元気良く「あさま山荘事件です!」と答えた。

先生は苦々しい顔で「ちがーーーう!!」と言った。

数多ある学校生活のワンシーンだが、鮮烈に憶えている。

そのおかげで1964年には「東京オリンピック」があったことを憶えていられるのだ。たぶん一生忘れない。

さらに、20代の頃母を亡くしたのだが、人生の選択やちょっと判断に迷うときに「こんなとき母だったらなんと言うだろうか」と考えてみると、言うことや声をわりと想像ができたりする。

おそらく、一瞬一瞬を鮮明に生きれば自分にとって大切な人と過ごした時間や印象的だった瞬間は、いつだってだれとだって呼び起こせるのだ。

これは現実をぐにゃらせることでもあるし、
時空をぐにゃらせることでもある。

現実や時空の解釈は自分自身に委ねられている。
概念の捉え方は自由だ。

なにとぞ。

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