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自意識過剰は何色か

そろそろ、自意識過剰は何色かを考えたい。


自分が所属している異なるコミュニティ同士が混ざるのが苦手だった。

具体的には小学校の友人と中学校の友人で会うとか、高校の友人と大学の友人で会うとか、大学の友人と社会人になってからの友人で会う、とかそういうケースである。

もちろん、こういうコミュニティが融合する感覚はすごく楽しい。あのひととあのひとが出会ったらどうなるだろう想像してワクワクしたり、実際にあってみると意外な共通項があったりして、そこからまた関係性がアップデートされていくのはすばらしい。

楽しいのはわかっている。
だが、そこにいる自分自身の振る舞いについて、必要以上に緊張してしまう。本来の自分がどのコミュニティに属している自分なのか不安になり「自分の色はどんな色だったかな」とわからなくなったりする。精神科医・心理学者ユングがいうペルソナ、なのかもしれないが周囲に適応しようとするあまりに自分の境界線があいまいになったりする。
ペルソナ (心理学) - Wikipedia

これは治したいなあと日頃から思っていた。

よくよく考えてみると、シンプルに自意識過剰だったのだと思う。自分は「こう見られたい」という承認欲求が強かったのかもしれない。

人前で発表したりするときにはさほど緊張しないのだが、より密な関係同士が混ざりあうときに自分の振る舞い方を気にしすぎていた。だが、結局これは相手にどう見られているかを気にしすぎているだけで、自分のキャラクターなんて流動的で静止点もないし、その瞬間ごとで移り変わってもよいと考えられるようになった。

自分の色ばかり気にしていたが、相手からみたときの色の見え方は光源のあたり方でも変わるし、相手の光の捉え方にもよるだろう(サングラスをかけているかもしれないし)。

どれも自分の色であって、そのときそのときで色彩がちがってみえてよい。
自分は「こう見られたい」よりも自分は「こうありたい」をみせ、「何色にみえるか」を相手に委ねよう。

そう考えて、これからは家族も友人も仕事も趣味も、それぞれの人間関係とそこで起きることもぐちゃぐちゃに混ぜてしまいたいと感じた。もっともっと定義を曖昧にしていきたい。

なにとぞ。

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