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福島のこころの支援、現場ルポ(仮)③ 出発と装備一覧

第2章-1 出発と装備一覧

 目覚ましは5:20にセットする。5時45分に家を出て、品川駅6時45分発のスーパーひたち1号に間に合わせる。服装は、ユニクロのグレーのスラックスに白いシャツ。ネクタイはつけない。その上に紺のジャケットを着こむ。普段の仕事でほとんどジーンズのラフな私が、さすがに気を使っているのだ。持ち物は、必携の黒いモレスキンのメモ帳にボールペンをひっかけ、汗拭き用のタオルと名刺入れををジャケットのポケットにそれぞれ放り込む。午後に無性に眠くなる体質のため、眠気覚ましの真っ黒なガムも忘れてはならない一品だ。鞄には、娯楽用のiPad、帰り道の報告書記録用のPCと電源一式、日程調整のための手帳、移動中の居眠り用の簡易枕、傘、非常食用の飴とチョコレート、車内で剃るための髭剃りを詰め込む。なんといっても往復で6時間以上の行程だ。そして汗拭き用のハンドタオルの換えを三枚、これを忘れてはならない。なんといっても異常に多汗症なのだ。
 

 2015年4月、私の浜通りB町への往復がはじまった。私は仙台出身で神奈川に住んでいる臨床心理士であり、カウンセラーであり、セラピストであり、時にコンサルタントである。(実際はこれらの呼称を使い分けている。)そして、私が福島を訪れているのは住民の「こころのケア」のためだ。
 始発の品川駅でまばらだった乗客は、東京、上野駅でたくさんの通勤客が乗り込み、ほぼ満席となる。ここから2時間半の行程で、終点のI駅着は9:12分だ。水戸駅、そしてひたち駅で大勢のサラリーマンが降りると車内の乗客はわずかになり、私は2名掛けの椅子に足を投げ出して手帳を開く。今日の予定は、朝一はI市の仮設住宅で住民とトラブルになっているおばあちゃんの訪問、次に、子ども園での子どもの観察、そして最後は新生児の母子への訪問だ。タイトなスケジュールだな、と私は額の冷や汗を拭い、気合いを入れなおす。暑いだけでなく、緊張しても汗がでる。でかい図体の割に小心で困る。
思い返せば、B町の心理支援に行くことになったのは、2014年冬の保健師のT課長さんからの次のようなメールからだった。

 「現在Bは帰町にむけて準備を進めています。しかしながら、今後、帰町する者、しない者など今までのコミュニティや家族の関係が崩れてしまうことが予想され、その中で、住民の精神的ストレスははかり知れません。そこで、保健師との訪問や相談など、私たちでは対応に苦慮するケースについて一緒になって、考え、住民のこころに向き合う支援をしていただけたらと思っております。人間関係によるトラブル、夫婦関係のトラブル、多量飲酒が増えています。」

 私はTさんのメールの「一緒になって考え、住民のこころに向き合う支援」という言葉に心打たれた。「問題を解決してほしい」、「こころを癒してほしい」などと依頼されたなら二の足を踏んだだろう。しかし、「一緒になって考える」ならできる。私のできることをよくわかっていただいている依頼だ、と感じ、断る理由はみつからなかった。二本松の保健師さんのおかげだと思った。私の使い方をわかってくれた保健師が福島県内の保健師ネットワークを通して私を導いてくれたのだ、と感じた。あとは自分の時間をどれだけ割けるかが問題だ。私は2015年度のスケジュールをやりくりし、月に1回の第四月曜日にB町に赴くことにした。

 B町の町民はこの時、多くはI市の仮設住宅と借り上げ住宅で避難生活をおくりながら、来る2015年夏の避難指定区域解除、つまり町への帰還の選択という問題に直面していた。つまり私のB町支援は、南に60キロのI市ではじまることになる。地理的な補足をしておくと、B町は浜通りの北部の相双地区に位置する。相双地区とは北の相馬地区と南の双葉地区の2つの総称であり、B町は双葉地区になる。この相双地区は、震災前は常磐線特急で仙台へとつながっており、買い物に行く時は、中通りの福島市ではなく、仙台に行くことが多かったとのことだ。しかし、常磐線が途切れてからは、めっきり仙台が遠くなり、いわきや東京方面が主要なお出かけ先になった。
 I駅到着のアナウンスが流れる。「今日も一緒に考える、だ。平常心、平常心。」とはやる気持ちに言い聞かせ、自分を落ち着かせる。駅前の広場にB町の保健師のKさんが軽自動車で待っている。助手席に乗り込むと、Kさんから今日の会う人についての分厚い資料を手渡される。

「今日はまず、私と○地区の仮設にいって、様子が気になるって話が出ているおばあちゃんのところに行きます。できればなんですけど、予定では伝えていなかった同じ仮設で虐待疑いのSさんの家にあいさつに行くのを同行してもらっていいかしら?それで、11時にはT保健師が迎えにくるのでTさんの車で子ども園に向かってください。3人の子どもの観察をお願いします。子ども園が終わったら、そのあとはM保健師と●地区の新生児のお母さんの家に訪問、駅まではMさんが送ってくれます。あら、お昼食べる時間ないわね。途中でB出身の人がやっている美味しいおにぎりの店あるから寄っていきましょう。食事はテイクアウトで車内で、になっちゃいます。センセイ、いつもすみませんね。」

 I駅を出発し、助手席で資料をめくっている私の横で、K保健師がてきぱきと一日の予定を組み立てる。わたしは、Kさんにしつけられているこどものようにひとつひとつコクリとうなずく。今日は3人の保健師さんのリレーだ。一人目の涼しげな笑顔が印象的なKさんは、関東のある県の役場の課長にまでなったベテランの保健師である。どっしりとしていて、この人にまかせておけば大概のことはなんとかなるのではないか、とこちらに思わせる気配を漂わせている。主に、虐待や子どもの貧困に取り組んできたKさんは虐待の見極めとその対象者の関係作りに関してはピカ一で、私は多くのことをKさんに学ぶことになる。虐待の介入は相手側から嫌がられることが当然多いわけだが、Kさんの冷静かつ有無を言わせぬ、それでいてしっかりと優しい態度が対象者のこころに入り込む力となるのだ。

 そう、実はこの時、B町には、全国から志願してきたベテランの言わば“エース級”の言わばスーパー保健師が投入されていた。エース級を募集したわけではないだろう。被災地Bで働きたいと思った人たちが選りすぐりの有志だったのではないかと推察する。虐待、老人介護、母子保健、精神保健などなど、私はそれぞれの保健師の経験に根差した専門性から多くを学ぶことになる。
 しかし、このエース級のひしめく現場は、実はそれはそれで大きな問題も抱えているのだった。

 さておき、車は幹線道路の国道6号線をはずれ、くねくねと回っていき、〇地区の仮設住宅についたようだ。
「さあ、行きましょうか!」
 Kさんが同じ建物が建ち並んでいる仮設住宅を馴れた足取りで縫うようにどんどん進んでいく。私は相変わらず保護者の後をついていく子どものようにひょこひょことそれに着いていく。

いよいよである。

(尚、事例については必要な改変を加えてあります。)


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