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触れることは心地よいこと/痛いこと

(本原稿はキリスト教保育連盟の「ともに育つ」6月号の依頼原稿です。)

 連載の最後は「触れること」の大切さと痛みについてお話しします。

 ヒトが子育てなしでは生きられず、しかも生き物で最長の養育期間を持つのはこの「触れる」交流が生きていく上で不可欠だからです。赤ちゃんの時は、抱っこやおんぶ、おっぱいを飲む、おむつの世話、などなど皮膚と皮膚の「触れ合い」によって、赤ちゃんは命の源=愛情を自分の中に取り入れて成長していきます。愛着関係は触れ合いそのものによって伝達されます。なによりも触れることが赤ちゃんを心地よくさせ、穏やかにさせると言えましょう。

 触れることは成長過程で具体的なものから、象徴的な領域の「触れ合い」へと拡大していきます。それは、言葉で話すこと、対話する、読み書きするなどです。この文章をみなさんが読んでいることも、私と読んでいるあなたが象徴的に“触れて”いることになります。読むことによって私の考えに接触し、読み終わると、些細ながら記憶の痕跡が残るでしょう。そこに「ふれあい」が起こっているのです。そうやってわたしたちは、日々さまざまに接触し、こころの栄養を交換しあっているといえるでしょう。もちろん、大人になっても、手をつなぐ、ハグする、キスなどの具象的なふれあいも大切ですよね。

 ふれあいは基本的に心地よいことなのですが、その反対の側面を見逃すことはできません。皮膚と皮膚の接触を思い浮かべてみましょう。皮膚や髪の毛を愛情を込めて撫でる行為は、繊細で優しいタッチです。しかし、そのタッチの力加減によっては、引っ掻きや、噛みつき、叩くなどになって傷がついてしまいます。ふれあいの力が強すぎて、「痛く」なってしまうのです。皮膚は柔らかく、触れる力加減と受け手の感覚に左右され、痛みにも変わります。つまり、触れることは、心地よさも産み出しますが、「痛み」とつながっている連続性のあるものなのです。

 このことは象徴的な交流でも同じです。自分の言動で、意図せずに、あるいは良かれと思っても傷つけてしまったことに身に覚えがない人はいないでしょう。こちら側の言葉遣いや内容、そのトーン、そしてそれを受け止める側の気持ちやコンディションによって、言葉のやりとりでも気分を害したり、苦痛になることが避けられません。たとえ傷つける意図がなくても、「相手が自分とは異なる人間である」と感じるだけで傷つくことすらあります。人は1人では生きていけない、ですが、同時に人は人がいるから傷つくのです。

 わたしは、人が人とふれあうことは、痛みを伴う「負の触れ合い」が不可避であることを忘れてはいけないと思っています。

 そして、たとえ痛みを伴っても、「ふれあい」なしでは人は生きていけません。大切なことは、“痛みを伴うことを知りながらふれあいをやめない”ことなのです。

 

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