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「来ないでください」からはじまる被災地支援〜加害性と被害性の絡まりを読み解く〜

(本稿は「横浜メンタルサービスネットワーク」からの依頼原稿に2021/8に加筆・修正を加えました。)

 何も変わっていないのに、決定的に何かが違っている。それは10年前のあの感覚だ。空の抜けるような青さ、屋根に貼り付けられたブルーシート。2011年6月の福島県二本松市は青が眩しかった。そんな風に目を凝らしたのは放射線の不安からだったのだが、もちろん放射線は見えることはなく、風景はやけに青く澄んでいた。何かがおかしい、いつもと違う。間違い探しをするように保健師さんの運転する助手席から町の風景を眺める。正解は、町に子どもの姿が見えないこと、どこの家も洗濯物が一枚も干されていない、ということだった。
 「放射線学習会」「ミリシーベルト」「ガイガーカウンター」、耳にしたこともなかった言葉が飛び交っていた。それは「3密」「ソーシャルディスタンス」「変異ウィルス」のように突然新しい言葉が生活に入り込んできた現在と共通する。“それ”は見えないのに、以前とは決定的に日常が変わってしまうのも全く同じだ。予測もなく、あっという間に変化を余儀なくされ、日常が失われ、不連続な不安の日々に投げ出される。現在のコロナ禍はあの時の福島の体験と重なる。対処の過程で様々に起こる「人災」が積み重なっていくことも似ている。
 地震と津波だけでも十分過ぎた。その上で生じた人災は、複雑に絡まり合いながら、人と人の間に潜在し、膿んでいく。その渦のなかで、10年経った今日も私は福島に通い続けている。

 二本松市の「放射線学習会」の講師から始まり、母子支援グループ、さらに二本松の保健師の紹介の縁で浜通りの楢葉町での住民の心理支援へ。何かできることはないか、と現地で求められたニーズに応え続けた。振り返れば、全ては現場での人と人との関係の連なりで依頼があって、それに応えることに無我夢中だった。はじめのうちはありがたがってもらっていたが、徐々にありがた迷惑な感覚が漂い始めたのは6年ほど経ってからだっただろうか?そして、コロナ禍で二本松の全ての支援が中止となった。
 浜通りでも外部からの支援者は徐々に減り、現地のスタッフと私は取り残された(ように感じた)。住民は、放射線や原発の被害そのものについてはほとんど語らなくなった。その一方、町が「復興五輪」の聖火リレーのスタート地点に選ばれるという明るいニュースが、浮いたようにこころに残った。心理支援は、一見「普通の地域支援」になり、私は「なんのために行っているのか?」を見失い、福島からの帰り道に胸がつかえるような違和感を感じるようになった。何かが起こっているのだが、また“それ”が見えなくなっていった。

 そんな目を開かせてくれたのは、ベテラン保健師が相次いで去った後の現地の保健師さんとのやり取りだった。取り残された私と保健師は支援の方向を見失い、これからどうしていくのかを打ち合わせていた。疲労の共有は本音をひきづりだす。保健師は私が来る事が「もちろんありがたい事なのだが」と前置きし、「いろいろ準備が大変で負担にもなっている」ことを打ち明けた。そうなのだ。保健師は、私がいない間のクライエントのケアを行い、私がくる前後は、面接を行う場所を確保し、時間を調整し、関係先やクライエントに事前の調整を行う。それなしに私の面接は成り立たないのだ。そんな相手に「先生いつもありがとうございます」と言わなければならない。それだけではなく、私は東京からのこのこやってきてコロナウィルスを撒き散らす危険を持ち、交通費も高く、謝礼も受け取っている。
 ー私は反射的に「わかりました。もう来るのやめます。これ以上迷惑はかけられない。こっちだってもう疲れましたよ。」と言いたくなって、それを飲み込んだ。
 コロナ禍の中で福島に行くことは、当時、福島からの避難者が東京など各地で拒否され、「放射能」といじめられ、疎まれ、素性を隠して避難しなければならなかったことを彷彿とさせる。言われのない思いと、見えないことだけにどうにもできない、という理不尽さを感じる。今度は私が拒否される立場になったということだ。
 不思議なことに(とその時は思った)この話題を共有したことで私と保健師はずいぶんと力が抜けた。それぞれの負担感を話しているうち、私と保健師は、「いやいや、あの人も、あの人も」と何人かの住民の顔が浮かんでは消え「まだやれることありますね」と打ち切り話を打ち切った。

 このやりとりを機に、私は10年の支援を通して自分の中で「見えなく」なった違和感の正体がわかってきた。頭の片隅にはあった「援助の加害性」ということを身をもって体感した。福島に通い続けているのは、私の救済願望や罪悪感からであり、私のエゴでもあった。それに振り回され、疲弊した保健師は私に「被害」を受け、しかし、その思いをずっと私に語る事はできなかった。微妙で些細に見えることかもしれないが、この本音が共有できないと支援関係は次の展開にはいけない。なぜなら、これから取り扱わねばならないのはこの加害性と被害性の微妙な絡まり合いの向こう側の話だからだ。
 思えば、私の仕事、カウンセリングや心理療法という「援助」についても同じことが言える。意識的には「役に立つ」「傷つきから回復する」ことを目的としている。しかし、その進行の局面や時期、あるいは関係性によっては、カウンセラーは加害者にもなり得る。話をさせること自体にその人の苦痛を顕在化させる痛みが伴うし、話してくれたことに共感できない、などのズレが生じる。そもそも心理士とクライエントの関係性は限定的で、時空間としても不在が多く、いつも助けられるわけでもない。加えて、無意識に加害的な関係が反復してしまうこともあり、援助関係にはさまざまな陥穽が待ち受けている。
 私が東京から部外者として通ってきているということが、関係を規定している。そして、長期に関われば関わるほど、その関係性を見つめることは避けて通ることができない。意図せずとも生じるこれらの問題は、「他者性」と「異なる主観性」につながっている。人は所詮他人なのだ。しかし、この傷つき/傷つけられる関係を共有した時、はじめて理解が一歩深まり、関係性は次のステップを踏むことができる。

 私が被災地支援でようやく発見したのは「私の加害性」であり、それと同質のものが様々な場面に宿っていることの気づきだった。それは福島が長く体験してきた善意の押し付けと相似している。福島が「未来のエネルギー」として東京電力の原子力発電所を受け入れ、その結果大きな負債と被災を被ったこと。そして、たくさんの支援者が震災の支援と称して現れては去っていく。善意の顔を見せ、振り回して、いなくなる。それは現在も「復興五輪」や「聖火リレー」などの形で何度も繰り返されている。その「ありがたさ」が傷つきや怒りを覆い隠す。
 この気づきは私にとって重要な次の一歩となった。福島の住民の複雑なこころがさらに身近に感じられ、体感できるようになった。住民も、この言わば「加害性」と「被害性」の両面に巻き込まれながら、気付かないうちに言葉が紡げなくなっていく。10年の時間と生活の中で、補償の多寡が住民間にもあり、復興を示すために帰還が推奨され、雇用などさまざま東京電力や原子力発電所との関係がある。莫大な予算が投下され、福島の外部から働き手が浜通りにやってきて、元の住民と混在する。そして町に帰還せず、どこかで暮らしている元住民の存在を意識、無意識に感じる。ここに暮らすこと、それに加担することにまつわる罪悪感がはびこっていく。これらの絡まり合った複雑な事態が、物事を見えにくくし、傷つきや喪失は「しょうがないこと」と自らにすら隠され、こころの奥に沈められ、見えなくなってしまう。  
 住民やスタッフとの対話の端々に、この難しく、割り切れない問題が絡まっている事を感じ、私は現地で起こっている複雑さに前より目が凝らせるようになった。私だけでなく、住民も「被害/加害」あるいは「怒りや憤り/罪悪感」が複雑に絡まりあって同居している。これが10年目の福島の現実なのだ。

 実際、復興が印象付けられている中で、福島のさまざまな支援の手が引かれつつある。五輪は復興の総仕上げとして目論まれていたが、コロナによってその区切りも見えなくなった。残っている大きな現実は、原子炉の廃炉は何十年続くのか見当すらついてない、ということだ。冷却のために増え続ける汚染水は敷地の容量を超える膨大な量となり、その海洋投棄も決まった。この汚染水も何十年もこのまま着実に増え続ける。何も終わっていないのだ。
 福島の「東京」電力から、今も関東に向けて電力が供給され続け、(隣町の「東京電力広野火力発電所」はフル稼働している)福島第1の廃炉の作業は膨らみ続け、住民はそこで仕事を得て、雇用が連なり、経済が回っていく中で生活を営んでいる。この10年で、住民の間にも見えない軋轢があり、そして個人のこころの中にも引き裂かれるような矛盾を抱えている。住民から「汚染水」を「処理水」と言い直すよう訂正されるとき、この複雑さは端的に表れる。被害と加害の立場は絡み合い、「処理水」の海洋投棄の問題も口籠もるような難しい問題となる。あまりにも当事者すぎるのだ。
 圧倒的な現実、それに伴って生じる分断や引き裂かれたこころの奥に私たちが向き合わなければならない本音がある。
 この感覚は、トラウマの支援の現場で私が実感することだ。現場では、時に被害者同士が傷つけあい、分断される。それ故、話したり、表明することが難しくなり、負の感情が行き場をなくす。この被災の現場で起こる構造は、コロナ禍の現在、もっと大規模に進行しているように私には感じられる。
 この覆い隠された深部に目を凝らし、埋もれさせてしまってはいけない声、届けるべき声を聞き分けていく必要がある。そこに10年目の福島を表す真の言葉がある。

 2021年度、二本松市から再度依頼が来た。そして楢葉町は月に2回通い続ける。コロナの波に揉まれながら、私の支援は「来ないでください」と言われて、やっとはじまったのだと思っている。

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