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福島のこころの支援 現場ルポ(仮)➁ 中通りから浜通りへの道

第1章 中通りから浜通りへ
 こころの支援のはじまりは2011年の初秋だった。私は福島県二本松市の「放射線学習会こころのケア編」に臨床心理士として講演を依頼された。二本松市は、福島県の中通りの北に位置する都市で、福島第一原子力発電所からは西に50キロに位置する人口6万人弱の市である。
 2009年の夏、私はこの二本松市東和で、カウンセリングや対人援助について話をしてほしいという依頼で「こころの援助の基本」という勉強会に呼ばれた。勉強会と言っても、自分の母と同じくらいの年のおばちゃんたちと、お茶とお菓子を食べながら、車座になっておこなうもので、しんどい話もあるにせよ、のどかで穏やかな雰囲気で、私は里帰りしたような気持ちになったものだ。
 この勉強会の縁で、私に「放射線学習会」の講師依頼が回ってきたということになるのだが、「こころの援助の基本」の次のお題が「放射線学習会こころのケア編」とは想定外で衝撃的な展開としか言いようがない。呼ぶ側だってこんな題名の勉強会を開くことになるとは夢にも思わなかったはずだ。相応しい専門家のあてもなく一度呼んだことのある知り合いの心理士に声をかけたという事情なのだろう。
 それにしても、私はこの題名と内容でいったいどんな話ができるというのだろうか。「専門外なのでお引き受けできません。」と丁寧にお断りするのが適切だろうが、だからと言って誰かを紹介するあてもなかった。そして、何よりも当時の私に「断る」という選択肢がなかったのだった。
 2011年の初秋と言えば、仙台の実家も、塩釜や石巻の友人や知り合いも生々しい被災体験の只中にいた。地震に引き続く津波は思い出すだけでもこころが疼く。3月11日当日に仕事の合間の職場のテレビに飛び込んできた津波のライブ映像は、私が小学生の頃に遊んだ宮城県名取市の荒浜のそれだった。
「あの場所にこんな津波が到達している!!」
 その映像を見た瞬間、私にはこの震災がとんでもない規模の被害をもたらすことがすぐにわかった。仙台の実家のマンションは一部損壊しており、父母の生活も不便をきたし、友人の家族は津波によって命を落としたり、行方不明になっていた。ニュースを見るたびに私も涙をとめることができなかった。しばらく見てもいなかったSNSで旧友たちに声を掛け合って消息を確認した。皆がありえないような震災のショックを受け止めきれず、しかし、なんとか立ち直ろうともがいていた。それが2011年の初秋だった。
 しかし、福島はその被災地「仙台人」の目から見ても、率直に言って触れにくい場所だった。言葉にするのは難しい。強いて言えば「地震と津波だけでもこれだけの衝撃なのに、その上に、、、」となんとも口ごもるような感覚だ。この後に続くのは「うちじゃなくてよかった」なのか「放射能は迷惑だ」なのかもよくわからないが、いずれにしても言うに憚られる響きが含まれていた。私の父は当時名取市の幼稚園の園長をしていたので、校庭や屋社の放射線値を測定しなければと血眼になって奔走していた。
 当時、臨床心理士やカウンセラーが、この震災に対して何かできることはないのかという感覚は共通だったと思う。しかし、衣食住の確保や、生活の立て直しがあってはじめて心理支援ということになり、多くの心理士は手をこまねき、待機を余儀なくされていた。震災から日が経つにつれ、多くの心理士が東北に震災支援に行きはじめていたが、福島だけはベールに包まれているような状態だった。ただでさえ未曽有の大災害であり、その上に原子力発電所のメルトダウン、それによる放射線、および放射線被ばく関連の支援は未知数で、まさに想定外の事態だったのだ。
 だからこそ、福島で何が起こっているのかは私にとって気がかりだった。重ねて2009年の勉強会の出会いがあった私に、福島の二本松市からの直接の依頼を断るという選択肢はあり得なかったのだ。
 私は、それを引き受け、知り合いの臨床心理士の有志に声をかけ、学習会の準備をはじめた。大した資料も集められないまま急ごしらえのこころのケアの資料を持参して二本松に向かった。そんな私たちを安達太良山のきれいな山並みと、やたらと青い空、そして洗濯物が干されていない、子どもがひとりも歩いていない静かな街並みが迎えたことはやけに鮮明に覚えている。

 福島県は東西に長く、奥羽山脈と阿武隈高地という2つの縦に連なる山々を境にして、会津、中通り、浜通りの3つの地域に区切られる。二本松はその中間の中通りに位置し、北には福島市、南は郡山市の間に位置する。2005年、二本松、安達町、東和町、岩代町の4つが市町村合併し、今の二本松市となった。奥羽山脈系の安達太良山は高村光太郎が智恵子抄で詠った「智恵子の空」で有名な美しい山と空を湛えている。高校時代、山岳部だった私はこの二本松を拠点に安達太良山系に入山したものだ。関東の小中学校も安達太良山を学校登山の対象にすることが多かったと聞く。二本松市から見て、安達太良山の「智恵子の空」の向こう側が会津地方、そして、後ろに振り返った東に低山が広がっている。その阿武隈高地の向こう側が、福島第一原子力発電所が立地している福島県浜通りである。3月11日を境にして、その智恵子の美しい青い空が見えない放射能の空へと変貌したのだった。その空はやけに澄み渡り、厳かな美しさすらたたえていて、私は奇妙な心持ちになったものだった。
 さて、放射線学習会は二本松市の、安達、東和、岩代、二本松4つの地区を巡る計4回の学習会だった。学習会の前半は私の講義、そして後半は「グループワーク」に充てられた。当時の自分が作った講義のレジュメを見返してみると、「こころの安全を守る」「見えない放射線がこころに与える影響」「ストレス対処とリラクゼーション」などという見出しが並んでいる。いったい何を根拠にこんなことを話したのだろうか?そして、私はその意味をきちんとわかっていたのか?といたたまれない気持ちになるが、とにかく必死だったのだ。
 講義に引き続き、そんなことをするのがいいのかもよくわからないまま、苦肉の策としてグループワークを設定した。グループワークとは、6-7人のグループに分かれて、それぞれが率直に自分の体験を話す会であり、時間を決め、各グループに話のファシリテーター(促進役)として私たち臨床心理士が入る臨床心理学的な手法のひとつである。
 実際の放射線学習会に参加した住民は、祖父祖母の世代の参加者が多かった。子どもがいない風景の理由は、子どもたちと母親の多くは自主避難をしていたからだ。グループワークでは、孫世代と切り離された二本松の祖父母世代からの困惑と怒りが混じりあった体験が語られた。「丹精込めて作ったキノコから何ベクレル検出された。」「孫に栗を食べさせてあげることができない悲しみ」「外出ができない、子どもがいない寂しさ」など、どれも生活そのものとなにげない日常が破壊された痛みだった。私はそれらの重たい現実に、ただただ、居心地が悪く、「そうですか」以外のなにも、文字どおり、なにも言えず絶句したことを鮮明に覚えている。この講演とグループワークを二本松市の各地区を巡って4回行うことになったのだが、ある会では「お前じゃなくて東電の社長を呼べ」と怒鳴られ、返す言葉もなかった。各地の放射線量の数値が取りざたされている中、放射線の数値の何が基準なのか、どのような影響があるのかもまったくわからない中で、こころの話など何の意味があったのだろうか。重大な事態に対して、よくて気休め、悪くてまやかし、と言われても仕方ないだろう。私たちのその無力感の反映は、4回目の講義に付け足された「起こってきた感情をそのまま認める」というパワーポイントのレジュメにもあらわされている。「認めてどうすんのよ?」と我ながらカウンセラーがのたまうこういった類の言葉がこういった局面で極めて無力なことには戦慄を覚える。とどのつまり、わたしたちは毎回途方に暮れて帰途につくことになった。今、あれから年月が経ち、私は当時の私に「途方に暮れて正解。それがまさにあの時の二本松の気持ちなのだから」と言ってあげたくなるのだが。それだけ、無力感とどうしようもなさが、という現実に直面したのだった。
 ともかく、この2011年の放射線学習会の体験は「臨床心理士なんて、あるいは、こころのケアなんて、この大震災と放射線被害という事態にはてんで歯が立たない」という感覚を私に刻み込んだ。そして、(だからこそと言っていいだろう)この未曽有の事態に専門家として何か役に立つ可能性があるのかどうか、という大きな課題と問いを私に残すこととなった。


 こうして私の“福島のこころの支援”は中通りの二本松市からはじまった。
その二本松市は3月11日の翌日から、浜通りの各市町村からの避難してきた人たちを受け入れた中継地だった。私は、炊き出しに参加したある女性が撮った当時の写真を見せてもらった。その写真は私が小さいころに見た「E.T」という映画のワンシーンのそれだった。白い完全防護服を着た人間が地球外生命体E.Tの検査のためにテントを張って、何かを取り囲んでいるシーンだ。しかし、写真の中では白い防護服に囲まれているのはE.Tではなく、着の身着のままの普通の姿の人々だった。おばあちゃんに抱かれた赤ん坊もその列にならんでいる。それはアメリカでもソビエトでもなく、日本の普通の人々だった。その写真は私の脳裏に焼き付いて残った。二本松市もその日から長く苦しい戦いに否応なしに巻き込まれていくことになる。私も無力感を抱えたまま、年に4回のペースで二本松に通うことになる。
「しかし、それにしてもあの写真の中のあの人たちはいったいどうなったのだろう?」私のこころにこの問いがひっかかったまま残っていた。
 2015年、この中通り二本松市の支援がきっかけとなって、私は福島県浜通りの心理支援へと誘われることになる。そして、私はこの4年越しの問いに向き合うことになる。
―あの人たちはいったいどうなったのだろう?

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