理念と力、中国史を振り返って

小林哲雄さんというFBFと「世の中を動かすものは何か」でひとしきり議論になった。その議論の発端は例のウクライナ戦争だったのだが、その経緯は省く。



要するに小林さんは「世の中を動かすのには正当性が必要だ」と言い、私は「世を動かすのは力だ」と述べたのだが、私は小林さんの主張を否定はしない。「正当性」とは言い得て妙だ。



何が世の中を動かすかは歴史を振り返るしか判断のしようがないのであり、私がそこそこあれこれ言えるのは中国史だけだ。その中国史を俯瞰して言えるのは、「時代を動かしたものは説得力を持つ正当性を携えた力だ」という事だ。



中国史で「正当性」というと、「周王朝」と「孔子」になる。しかし実際の歴史的事実を述べれば、周王朝が実権を握っていた年月はごく短く、すぐに諸侯が覇権を争う春秋戦国時代に突入した。春秋と戦国はどう分けるかというと、大雑把に言えば「諸侯が覇権を争ったが一応周王朝を正統王朝としてその権威を認めていた時代」が春秋時代であり、「周が全く一つの小さな諸侯に過ぎなくなった」時代が戦国時代である。春秋時代には諸侯は一応周王の顔を立てて「公」を称したが、戦国時代になると皆それぞれ勝手に「王」と称した。



孔子に到っては更に惨めで、彼は自分の政治論を各国に説いて廻ったが受け入れる国はなく、結局故郷に帰って私塾を開いた。その弟子があちこちで仕官したのだが、どの諸侯も孔子の教えに感銘は受けたものの現実的な政治理念とは受け取れなかった。これは丁度今の日本で「憲法第9条があって戦争は放棄した」という主張と「そうは言っても周りは敵だらけで軍隊なけりゃどうしようもないでしょ」という議論にある意味よく似ている。戦国時代にあっては何処の国も周り中敵だらけだったので、崇高な徳目は二の次だった。諸侯は「富国強兵策」を求めたのであって、孔子の高尚な教えは必要とされなかった。



しかしながら、実際はパッとしなかった周王朝とか孔子が主張したことは、その後の中国史に於いて長く重要な理念になった。国が千々に乱れ、お互いに相争う時はまずは武力なのだが、そもそも「中国を統一しなければならぬ」という概念そのものはまさに周王朝に始まっている。また中国を支配するものは天がこれを定める、と言う概念も周に始まった。



周が滅ぼした王朝は商(後の歴史では殷)だ。周は商を滅ぼして国を建てたのだから、当然今に残る勝者の歴史では商、特にその最後の紂王は極悪非道であったことになっている。周は「商は天命を受けて中国を支配したが、紂王が天に背いた為中国の支配権を失ったのだ」と主張した。



これは相当に勝者周の主張に基づく論理であろうが、実は史実として証明出来る部分がある。と言うのは、商(殷)では甲骨文字が用いられ、特に占いに用いられた。その占い文は甲骨、すなわち獣の骨やカメの甲羅に記されたので、今でも出土するのである。そしてそれらはほぼ内容が解明されている。それによると、例えば王の体調が優れない時、商では「これは何代か前の王の祟りだ」と考えた。そして甲骨を用いて占ったのだ。「何匹の羌を生け贄とすべきか」と。



つまり商の人々にとって、羌族は生け贄にすべき獣で有り、人とは思われていなかった。商の祭政一致の体制下ではその様だったのだ。商人(しょうひと)だけが人間であり、他は捕まえて使役したりまつりごとの犠牲にするべき「何か人間じゃ無いもの」であった。



一方周の姫族はそもそも羌と姻戚関係にあった。それで、姫族と羌族が中心となり、商から人間扱いされていなかった諸部族を統合し、連合軍として商に迫った。周側が残した記録に寄れば、最終決戦牧野の戦いで商軍は軍の規模に於いて遙かに周連合軍に勝ったが、皆奴隷兵であったため、いざ連合軍が攻めると商兵は皆戈を逆しまにして戦わなかったという。



歴史は全て勝者周によって作られたのだから、商の悪口は大幅に割り引くべきだろうが、少なくとも出土する商の占いの甲骨文によって、商が他部族を人として扱っていなかったことは明白なのである。周を建てた姫族はそうした人間扱いされていなかった諸部族を結集して商を倒した。姫族と羌族が婚姻関係にあったことからも、これは事実だろう。



ここに於いて、始めて「中国」という概念が生まれたのである。商にとっては商だけが支配者であり、他はそもそも人ですらなかった。商がそうなのだから、おそらくその前の夏もそういう意識であったと推測される。黄河文明の創始者は考古学で推定出来る限り夏が初めとなっているが、夏や商は「自分たちだけ」を考えていた。だがそもそも殷周革命で諸部族連合を率いた周は姫一族を超えた概念を創始せざるを得なかった。「中国」の誕生である。多民族国家中国はここに生じた。



以来中国は分裂と統一をくり返すが、どれほど分裂しようとも「中国」という概念は消滅しなかった。もちろん周王朝の権力が及んだ範囲は今の中国と比べればごく一部に過ぎず、当時は「中原」という言い方が支配的だったが、ともかく中国大陸に一つの権力の核が生まれ、それは多部族諸国家を内包しつつ一つの概念としてある権威の元に統一されるべきものである、という考え方が、ここから起こった。何百年も戦乱をくり返した時ですら「中国は何時か統一されるべきもの」という概念は存続した、「誰かが天命を受けて中国を統一しなければならない」というのである。これは周以来、中国のセントラルドグマになった。それは実に、今の中台情勢にまで影響している。「今は大陸と台湾だが、いずれは中国として統一されるべきもの」という概念は、実に紀元前千年以上前の牧野の戦いとその結果としての周王朝成立にその端を発している。



だから中国史に於いては「中国統一」が理念となる。武力は無ければ話にならない。しかしどの様な武力を動かすにも、「中国を統一するのだ」という理念がともなわなければ人心を動かすことは出来ない。それは必ずしも漢民族でなくても構わない。事実中華統一王朝の内、はっきり判明しているだけでも秦、唐、宋、清は異民族王朝だ。西晋もそうだろう。しかし彼らは「中国を統一する」という旗印を掲げ、中華の概念を受け入れたから中国統一王朝になれた。一方モンゴル族の元は徹頭徹尾「中国」も「中華」も否定したので、強大な軍事力を持ちつつ100年と持たなかった。



以上私の乏しい中国史の理解から言うと、「武力と理念は両輪」である。武力をともなわない理念は孔子が振り回したが、同時代の誰も動かすことは出来なかった。理念なき武力を振り回した元は強大な武力を持ちながら統治を長らえることは出来なかった。



その社会に於いて本質的とされる理念を受け入れる武力こそが、社会や国を動かすのだ。

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