医者の閉心術

全人的な医療をしろというのは私は素直に頷けない。

私は高齢者医療が専門だが、例えばここに88歳のねたきりで重度の認知症で誤嚥性肺炎をくり返している患者がいるとしよう。と言うかそう言う患者を私は無数に診てきた。その人が何度目か分からない誤嚥性肺炎になり、多剤耐性菌が起炎菌でもう打つ手が無いとなった。家族を呼んでムンテラ(失礼、私は古い世代の医者なので)し、寿命ですと。諦めてくださいと話す。大抵家族も何度もそういう場面で呼び出されており、本人の状態も分かっているので、「分かりました。ここで出来る範囲の治療でお願いします」という事になる。終末期医療は滞りなく進んでいき、淡々と死亡確認に至る。あるいは当直医に申し送りして「認知症末期です。DNAR(蘇生せず)でお看取りお願いします」と書いて終わりだ。翌朝はもう患者は滞りなく死んでいる。

しかしだね。

ぽつりぽつり家族がその人の来歴を語り出すことがある。貧しい農家に生まれて都会に出て頑張っているところを戦争に取られて、運良く帰還してからはまたがむしゃらに働いたが奥さんと死に別れてから言うことがおかしくなり・・・。

こう言う話を聞いてしまうと、途端に目の前の寝たきりが「人生を背負った一人の人間」になってしまう。今はあーとかうーとかしか言わないこの人が、こういう人生をたどってきたのかと知ってしまうと、老年科医としてはかなりやばい。心の「ストッパー」が一つ、外れてしまう。そういう人が今ここで、ついに亡くなろうとしているんだ、この人の人生が終わるんだとしみじみ考えると、ちょっとルーチン対応はしづらくなる。

しかしプロとしては、それではいけないのだ。私の受け持ちは皆そういう人ばかりであって、老人病院などは「そういう人が最後に死ぬ場所」であり、私は「看取るのが仕事の医者」なのだから、皆を淡々と看取らなければならない。次から次へと、淡々と。

そのためには、心にストッパーが必要なのだ。知ってはいけないことは、知ってはいけない。そうしなければ、心が壊れてしまう。毎日毎日死んでいく寝たきりの老人の人生を全て背負うことは出来ない。発狂する。といって死亡確認は医者しか出来ないのだから、私は死亡確認を続けなければならないのだ。それが社会に於ける、私に課された使命である。そのためには、知ってはならないことは心に入れない。

思うに坊主だろうが、火葬場の職員だろうが、同じだと思う。死体と化したその人の人生を事細かに知らされたら、どうしてその遺体をあんな劫火にくべることが出来ようか。坊さんだってさも分かったような説教をするが、実際には毎日毎日何件と葬式をこなすんだから、死人に感情移入なんかしていないはずだ。

なんて非人情なと思うかもしれないが、そうでなければ高齢に達した人を医者が看取り、葬儀屋が引き取り、坊さんがむにゃむにゃ言って、火葬場で火にくべるという社会の仕組みは廻らない。

しかし癌を専門にする医者の中には、時々心を壊す人がいる。癌は50代とかで死ぬから。毎度毎度そういう人を診ている中で、ある時ふっと心のかんぬきが外れてしまうのだろう。いったん外れるともういけない。医者が心療内科や精神科に通ってきて、結局「職場を変わりなさい」という事になる。そういうのはまだましで、自分勝手に抗うつ剤や抗精神病薬を飲んで収拾が付かなくなり、精神病院に入院する人もいる。

「閉心術・オクルメンシー」というのは、大切な専門技量の一つである。https://www.ayumino-clinic.com

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