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恋十夜 第一夜


第一夜 

こんな夢を見た。

乳母のキヨが窗を開け「お孃様、本日は晴天にございます。空が靑く澄み渡り清々しゅうございます」などと云いながら私を起こし、次いで寢臺の背を上げた。
キヨがラヂオを点けると二胡の音が流れ出す。私は二胡の音色を聽きながらキヨに身を委ね朝の身支度をしてもらう。慣れない此の地で快適に過ごせるのは全て彼女のお陰だ。

私の身支度をすっかり終わらせたキヨは「花瓶の水を變へて參ります」と云い牡丹の香りと共に部屋から出て行った。
ラヂオは二胡の演奏を終え、今度は高く艶のある唄聲を奏でている。

瑞々しい香りを孕んだ風が頬を優しく撫で、嬉しそうに囀る小鳥の声を連れてきた。キヨの云う通り今日は良い天気に違いない。

<<コンコン>>

扉を叩く音。

(誰かしら?)

キヨではない。キヨならば足音で判る。

不審に思いつつ「どなた?」と尋ねてみる。

「おはようございます。米内(よない)です」

(米内様?)

聲の主は每朝晚樣子を診にきて下さる米内醫師。優秀な軍醫であり、見目も麗しい(とキヨは云う)優秀な事には同意するけれど、残念ながら見目については分からない。

「ご様子を伺いに參りました」

米内樣の訪問に心躍りつつも違和感を覺えた。 

(妙だわ…) 

いつもと比べ徃診時閒が隨分と早い。 
おまけに足音から看護婦を伴っていないご樣子。 

 一體なぜ?と、逡巡するも待たせてしまっては申し譯ないと一先ず部屋に入ってもらう事にした。直、キヨも戾ってくるだろう。

「どうぞ、入っていらして」

 扉が開き、足音が此方に向かってくる、床の軋み、衣擦れ、お日樣の香りがする體臭と石鹸の匂い、それに微かな息遣い…米内樣はベッド脇の椅子に腰かけたようだ。

「お加減如何ですか?」
「えぇ、お陰樣で。痛みを感じることも無く良好で御座います」

私は聲の主の方へ體を向けた。しかし姿を見る事は叶わない。

「それはよかった。直、包帶が取れますからね」

私の眼部はガーゼによって手厚く保護され、包帶が卷かれている。
數週閒前に右目の、一週閒前に左目の手術をしたのだ。

               *

 女學校を卒業後、程なくして私の目は光を失った。

盲目の令孃を娶りたいという奇特な人閒などそういない。決まっていた緣談は當然の如く流れた。

光を失い破談になった娘を哀れんだ兩親は、せめてもと治療方法を必死で探してくれた。然し、分かったのは光を失った目を治せるお醫者樣は世界中に數人しかいない事、どのお醫者樣も何十人と豫約待ちの患者を抱えており、先頭の患者ですら「角膜」が手に入るまでは手術ができないという嚴しい現實であった。

今から手術待ちの列に並んだとしても手術はいつになるか分からず、私の目に光を取り戾す事なぞ不可能なのだと皆がそう諦めかけていた時、一つの奇蹟が舞い込んできた。

それが米内樣との緣談。

米内樣は陸軍軍醫、現在は滿州に駐留。家柄もよく男前も惡くないと云う。然し、不吉な瞳の持ち主と云う事で三十歲を過ぎても未だ獨り身であった。

見合い寫眞を見た兩親は彼の瞳を大層氣味惡がったが、米内樣が盲目を治す事の出來る數少ないお醫者樣の一人だった爲、背に腹は變えられぬと娘の目を治す事を條件に緣談を承諾した。兩家樣々な思惑が絡み合った緣談ではあるが、萬事圓滑に進み出した。

「確かに米内樣は人外じみております。然しそれは美しさ故にございます」

キヨは私が不安がっているのではないかと、米内樣の容貌について言及した事がある。突然舞い込んだ奇妙な緣談と、キヨの言葉、立派な御仁を緣遠くさせる程の「不吉な瞳」に私は大いに興味を惹かれた。

程なくして私は手術の爲に渡滿する事となる。

                *


「包帶が取れたら直ぐに見える樣になるのでしょうか?」

 米内樣にガーゼと包帶を變えてもらいながら私は質問した。

「いいえ、視力が安定するまで2、3ヶ月はかかります」
「左様でございますか、とても待ち遠しゅうございます」

米内様との他愛もない会話の途中で何故だか心がチリチリと痛んだ。

(私以外の患者樣にもこの樣にお優しいお聲をかけていらっしゃるのかしら?)

暗闇の世界ではあらゆる感覺が銳くなる。
言葉だけの優しさは直ぐに見破れる。

米内樣は全てが慈しみに溢れていた。

(米内樣も私と同じ想いならどれほど仕合わせな事でしょう)

「これを」

米内樣は私の手を取りその上に何か置き、さらにご自身の手を重ねられた。

「軍部の指令により、本日午後より前線へ應援に行く事となりました。私が戾る頃には貴女の視力はすっかり囘復していると思います。もし、視力が囘復した後もまだ私が戾らない樣でしたら此の手紙をお讀みください」


ここで目が覺めた。


 朝、キヨの手を借りる事なく身支度を濟ませ、自室の机からその時の手紙を取り出す。滿州から歸った後、今日の日まで寶物の樣に大切に保管していた。

 黑紋付を著て懷に手紙を仕舞い車に乘り込む。今日は目に光が戻ってから初めて米内樣とお会いする日。車の中で手紙の封を開け手紙に目を通す。とても短い手紙だった。

 車は目的地に著き、いよいよ米内樣と對面の時が來た。

(ああ、キヨの云っていた事は本當だったのね)

 米内樣の瞳は片方が漆黑、もう片方は色素が拔けていた。
 整った顏立ちも相まって、確かに人外じみた美しさを感じる。

 キヨによれば實物は拔ける樣な靑色だったのだとか。ついぞ見る事は叶わなかった。

 小さな箱に收まってしまった米内樣にお別れを告げ、もう一度手紙を讀み返す。
「生涯君の側に居る事を誓う」

 (米内樣…)

その日以來、米内樣は每晚夢に現れるようになった。
夢の中の彼はいつまでも美しく、漆黑の瞳と大連で見た靑い空色の瞳で私を見つめ、微笑みかけて下さる。

夢の中だけでも一緒にいて下さる。私は其だけでも慰められ、滿たされた。

第一夜 終

#眠れない夜に #小説 #夢であいましょう

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