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刺激を求めて、三千里。

台湾に来てから、一ヶ月が経ったので、久々にnoteを書いてみる。

台湾へ来る前は、波乱の幕開けだったように思う。

台湾へは翌日は早朝便だというのに前夜は高校時代の友人と深夜まで飲み明け、タクシーで空港に着いたが寝坊してギリギリで乗り遅れるという事態。メインのクレジットカードもまさかの盗難に遭い、不正使用を防ぐために台湾へ飛び立つ時にカードは無効に、キャッシュカードも自宅に置いてきたことから引き降ろすことも出来ず、手持ちの現金のみのほぼ丸腰で降り立ってしまったのである。SIMカードも解約していたことから、公衆電話からクレジットカードや警察に電話する光景は、さぞ滑稽だったと思う。

そんな自分自身を嘲笑いながらも、本音をいうと内心はとてつもなくワクワクしていたのは言うまでもない。頭の中では、この言葉がわたしを鼓舞していた。

「さあ、この後どうする」

そう。わたしは根っからの刺激を愛する、安定を何より嫌う生き物だということを、この時に改めて強く知った。ちなみに、これを書いているのは、昭和の漢の話ではない。32歳になったばかりの、令和に生きる女の話だというのだから自分でも驚きを隠せない。

平和な国で毎日を平坦に生きようとすると、事前に想定し得るリスクを避けていれば、"ほとんど"は毎日がルーティンの繰り返しだ。同じ時間に起きて、仕事をして、同じ時間に食べて、それなりに一生懸命仕事をしていればのたれ死ぬことなく生きていくことができるこの世界で、いつもどこかで刺激を求めていた。

例えば大自然の中にいる時、人がよく「自分はちっぽけだ」というあの言葉の本質は、自分のコントロールできない大きな存在を目の前にするからこそ紡ぎ出される言葉であり、感情だと思っている。畏敬の念やそこに宿る儚さや美しさが、当たり前とは程遠い、「生きている」ということの尊さを実感させてくれるのだと思う。

台北から南下し新幹線で2時間ほどの場所にある街、「花蓮」。

わたしが「生きている」と実感し、それを「美しいこと」だと思えるのは、自分が太刀打ちできない何かにぶち当たった瞬間の、人間の底力や、のたうち回りながらも前進しようともがき、生きようとする本能を感じた瞬間だ。

だからこそ、これから何が起きても怖くない。いや、むしろ、怖いと思いながらも、受け入れる準備ができていると言ったほうが正しいかもしれない。

何かを変えたくて、刺激を求めて台湾へ来たけれど、一ヶ月も過ぎてしまえば、非日常も日常になる。住む場所を変え、訪れる場所を変え、環境を変えればそれなりにまだ刺激の中で暮らすこともできるが、刺激というのは外的なものから得るものだけではないということを知った。

自分が赤ん坊のように、いろんなものを吸収できるこの環境の中で、自分自身を人生の一番大きなプロジェクトとして一つの作品に向き合う過程の楽しさを実感している。これは、自分を昨日よりもちょっとだけでもいいので成長させる、という内側からの刺激だ。

週2回のプラベートクラスも取っている。ヤン先生。とても優しい。

台湾に到着した日はまだ「ニーハオ」と「シェイシェイ」しか知らなかった中国語も、一日5時間近く毎日勉強していると、全く分からなかった言葉が少し分かるようになってきた。これはなんだかまるで真っ白な世界に、毎日少しづつ色鉛筆で塗り絵をしていくような感覚で、毎日が楽しくてたまらない。

そんな楽しい日々も、いろんなことがある。

直近でいうと、昨日友人に「台湾は占いが有名」と聞いて普段は行くことのない占いにルンルン気分で行ったところ、当たると有名な占い師さんに仕事運と金運が最高と褒めてもらって気分良くしていたら、まだ聞いてもないのに「あーた、恋愛運、ヨクナイネ。」と開口一番に言われ、「いつか素敵な人に出会えますか?」と質問すると、

「出会わない。」

by 台北横丁の母

コンマ0.5秒で即答された。

「出会"えない"」のではなく、「出会"わない"」と言い切る先生の言葉に、知識と経験に裏打ちされた先生の清々しいほどの強い意思自信を感じた。

そして思った。今こそ、コントロールできないことを楽しむべきなのかもしれない、と。

それでは。


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