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空海の弟子は、なぜ有名じゃないのか?

空海のわかりにくいところは、

文字面を追いかけて暗記して並べ替えて、
つらつら言うという知的な側面では、
言葉の表面をなぞるだけで
神秘を遍在的に掴めないからだと思う。

 
存在の状態(形態ともいえるか?)
として、遍在に成す ことと

その遍在の身体を持って(遍照金剛)、
行う(技)というところ。



このうち、遍在との合一が、
世に言われている神秘
の深い側面だけれど、
 
それを意図的に
有形の生命としてのマンダラ
として模すことで、

密教でいう
大日如来としてのボディと合致し、
 
そこから為されることが、
合一を超えて世を加速する効果を持つこと
を見抜いたことだと思う



つまり、
神秘の側面としては、

その形態を越えた形態としての
あらゆる探究。
 
その形態が永遠のイマとして在ることの
遍在という絶対的な気づき。

そして、
有形の生命としてのカタチを
あえて意図的にマンダラとして模すことの
可能性。


この3段階が考えられるとも思う。
3つめは世に知られていない


そして、一つ目からすでに
知的な暗記となぞりと
記憶としての引き出しという「知」では、
対応していない
 
おそらく、ここを
古の人々は、
カタチなきカタチとして捉え、

そこからの視座からの知覚的なものと
とらえたのだろう。



『如如如如の理
空空空空の智の如きに至っては
 
足断えて進まず
手亡じて及ばす
 
奇なるかな曼荼羅
妙なるかな我が三密。
 
by 空海
〜平城灌頂文〜』 

 
 
 

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