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ピカチュウは鼠よりリアルな生き物だと思っていた

私は1990前半生まれ、赤・緑バージョンを遊んだポケモン世代ど真ん中だ。物心ついたときはもうゲームボーイ(お弁当サイズのではなく、次に出たちょっと軽くて金色のやつ)で遊んで色鉛筆でピカチュウのお絵描きをしていた。簡単だったからナゾノクサとビリリダマとプリンをいっぱい描いた。
男の子が昆虫図鑑や働く車図鑑に夢中になるように、私はポケモン151匹の名前とタイプと覚える技と進化レベルを覚え、保育園いちのポケモン博士と呼ばれていた。

私は東京の都心と郊外の間くらいで子供時代を過ごした。同じような建物が何十キロも延々と続く住宅街の景色は私にとって安心する原風景だが、空虚でさびしいようにも感じていた。
家屋はあるのに人は歩いていない日中の風景、魚のいない川、平坦な自然、人と接するのもそんなに得意じゃなかったし、
そういう風景をひとり往復する日常は現実であるものの時がとまった世界で、手ざわりのない空虚なものと感じていたと思う。

テレビでは華やかな外国の風景や見たことのない動物を見ることができたが、そんなものは子供の狭い行動範囲の中にはなかった。ゾウやライオンやお笑い芸人よりも、手元で会えるピカチュウとかポッポとかのポケモンのほうがずっと身近でリアルで「本当にいる」存在だった。ピカチュウのモデルになりかつては生活の中にいたネズミも、もう現代では見かけることはないから、鼠と比べてもピカチュウはとってもリアルだ。

虫かごをもってカマキリを捕まえながら公園でゲームボーイでポケモンを遊んでいた。カマキリの柔らかいお腹をつぶしてしまって、思ったより虫って弱いんだなと感じた時と、ふたご島の暗い洞窟の奥でフリーザーと戦って全然捕まらなくて手持ちのポケモンが全滅しそうな時ですごく恐ろしかった時と、その2つの存在と冒険は、私にとっては同じくらいの生々しさだった。

ずっと学生時代をゲームどっぷりで過ごして、今はゲーム会社で働いているけれど、私はそのときの触れられるリアルな世界の実感をずっとゲームの中に見ているのかもしれない。と書くと、あぶないやつだな・・。


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メタバースは夢の仮想世界などではなく、あくまで現実を便利にするために使われているに地道な技術にすぎない、ということを先日のNoteで書いた。

ウォークマンは1979年発売、初代携帯ゲーム機のゲーム&ウォッチ(ビジネスマン向けで玩具感は少ない)が1980年発売。街を歩きながら、同時に手元でもうひとつの電子世界をいつでも起動できる生活、このころがリアルとデジタルが並列に存在する拡張現実世界の始まりだと考えられていることが多い。

ゲームボーイは少し遅く1996年に発売し、小学生の放課後の過ごし方を大きく変えた。そういう私たちみたいな世代が高校生になって2000年代にDSのおいでよどうぶつの森やPSPのモンハンを放課後のマックに集まって遊ぶ文化を形成した。ゲームボーイ以後日本ゲーム市場で長らく携帯機の存在感が強く続いていた。

そして2010年前半のスマホの普及によってデジタル機器は広く一般の人々の生活に食い込み、ソーシャルゲームがゲーマーと呼ばれる人たちの人口を激増させた。
ツムツムのようなライトなものもたくさんあったし、でもやっぱりその反動としてゲーム性を追求したパズドラやモンストやテラバトルなんかもゲーム畑のクリエイターからたくさん出てきた。そのクリエイターたちは私たちが学生のころ夢中になったプレステのゲームを作ってる人ようなたちだった。

2021年のいま、ほとんどの人はつねにLineやSNSでつながり続け、親は子のGPSで位置を把握している。SNSでは個人アカウント、ビジネスアカウント、趣味アカウントを持ち常に複数の人格アバターを同時に生きている。マリオの世界がUSJに立ち現われ、NFTは物の価値に革命をおこすといわれて、ウーバーイーツというゲーム的な報酬システムが物流を支える今は、リアル次元とデジタル次元の2つを同時に生きているという時代はとうに超えてしまって、デジタル次元がリアル次元を超え始めている時代といえるだろう。そしてメタバースはさらにその2つの次元の転倒と融合を進めていくだろう。


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おおげさかもしれないけれど、現実よりもデジタル空間を生々しく生きる時代を、私は先取りしていたのかもしれない。
私はオンラインゲームはあまりやらなかったけれど、2000年代にFF11やPSO2にはまっていたオンラインゲーマーもそういう実感を持った人だったのかもと思うと、なんだか共感できる。

ゲームはいつもリアルの世界のルールと価値観を転倒させ、変容させる。遊びは古代からそういう役割を持ち、文化を築く礎になっていたと有名な古典であるホイジンガ著のホモ・ルーデンスにも示されている。
ただしホイジンガが示した遊びはサイコロ遊びや謎かけといったアナログゲームであり、狩猟や農耕といった生活と同時に行うことはできないから、文化に与える影響スピードはゆっくりだ。
古代の遊びとデジタルゲームが一番違うのは、デジタル次元はアナログ次元と同時に存在できるがゆえに、そのどちらにも完全に偏らない第三の世界に行けるところだ。まさにポケモンを捕まえながら虫も捕まえて、その2つの感覚と実感が溶け合うような体験ができるのがその第三の世界の感覚であり、未来のメタバース活用が広める感覚なのかなと個人的には思っている。

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