歌集『クジラを連れて』大引幾子 歌集を読む


この歌集には作者の20代から40代半ばまでの歌が収められている。
編年体なのであろう。
5章に分けられた1章と2章はいわゆる前衛短歌的な比喩でみずみずしい感情を歌う。その中で、2章になると、作者は子を産みそして教師を務める中での出来事が歌われる。詩のことばはすこしずつ自らの近くにあるものを見つめる目や手触りに変わっていく。
やがて3章、4章になると自らの生活に根ざしたうたが多くなり、
きらびやかなレトリックではなくその歌全体が詩の景としてうたわれる。
様々な出来事、作者の歌は教師として生徒との出会いが中心にある。
歌の内容や選ばれることばをとおして、一人の人間が歳ととも変化していく様が見えるようだ。

歌集の中でいくつか好きだったうたをあげる。

いっぽんの若木を植えん寝息する君のあばらをそっと折り取り P15

あばらを折り取るという、旧約聖書の創世記からのイメージの抽出は、塚本邦雄の影響をうけているのであろうか。
折り取る君のあばら骨と若木のイメージがシンクロして、みずみずしい相聞の歌が読者に届く

しばしばも線路を夢む溢れ出しおのれきわまりなき鉄の思惟 P59

上句の線路と結句の鉄の思惟がリンクする。
この線路を夢見るのは誰であろうか。自分のこと、それとも子のことか。
この歌だけを読むと自分のことのようにも思える。どこまでのまっすぐな鉄の思惟へのあこがれか。
下句の「おのれきわまりなき鉄の思惟」がよい

図書室にグッピー飼えば日に一度グッピー見に来る生徒と知り合う P71

景をうたう。一首に「グッピー」が2回リフレインされることで景を歌っているだけなのに、グッピーを見に来る生徒との交流が見えてくる。

授業終え春の廊下を戻るとき身ごもれることふと思い出す P78

これも日常の一場面。しかし、そのときの作者にしかない日常の場面。
「ふと」という語の使い方は難しい。が、身ごもる作者が息を吐く瞬間に世界から自分の体に意識が切り替わる、それは「ふと」としかいいようのない息の時間なのだろう

四月からは来ないあなたとつぶやけばセロリの香ほど鋭(と)く我を打つ P133

詞書きには"進級できなかったあなたへ"とある。
「あなた」は作者の中にはいるが、現実にはそこにいない。そのことに感覚が追いついたときセロリの香ほどにはっとさせられるのであろう。

ふっくりと少女は笑うあざやかな蛾の触覚のような眉して P147

初句の「ふっくりと」という言葉にティーンエイジならでは(たぶん)の作者からみた若さがと幼さが表現されるその顔の表現に「蛾の触覚のような眉」とあり、視覚イメージで少女の顔が読み手にとどく。あざやかに。

先生は生徒の敵か味方かと聞かれておりぬ掃除しながら P163

この実景の切り取りそのものが作者の心象を表現する。
”掃除しながら”と、ついでのように、おもむろでありながら真剣な選択の要求に先生である立場の作者はたじろぐ。「聞かれておりぬ」であるから思い返しているわけであるが、そこでの回答(あるいは回答しなかった)に作者は振り返る。

まっくろの大きな牛が口開けてべうと響かす小屋のにおいを P174

この章にうたう教師としての過酷な日々の隙間に子と過ごす景であろうか。
山間のどこかに旅にでもいったのであろう。
殺伐ときりきりとした日々を過ごす作者にとって、心のやすらぎのように
黒牛のいる小屋の記憶をにおいとしてとどめる

樹のにおい胞子のように降ってくる朝わたしは泥まみれです P190

作者はどこにいるのだろう。樹のにおいが降るような場所だから、
道を歩いているのだろうか。樹のかおりではなくにおいがする朝と歌う。
それは朝なのに生な感情に包まれて逃れられないなにかがある。そして、
「わたし」は自身を泥まみれと言っている。
この1首だけでは心情の深いところまでは測ることはできないがこの章に歌われる壮絶な教師としての日々を読むとき、作者の心情がたちあがってくる

綿の実はにぎやかに生(な)りりんりんと空行く雲に合図を送る P192

歌集の最後から3首目。地にある綿の実が空の雲とつながる。
そのりんりんと鳴るような景の中に作者はいる。

冒頭に「一人の人間が歳ととも変化していく様」と書いた。
しかし、今一度歌集を読み直したとき、まわりの環境は変化し、そして歌の言葉は変わっても作者の深いところから見るまなざしは変わっていない。
君、こども、そして生徒。作者自身が真摯に向かいあう他者との間に歌がうまれる。そこにドラマ(とあえていうそれも歌としての詩情だから)があらわれる。

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