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文化人物録43(野平一郎)

野平一郎(作曲家・ピアニスト、2018年)
→現代音楽の作曲家、ピアニストとしても一流で、さらに東京音大学長を務めるなど教育者としてもすぐれた超人。ご本人はいつもひょうひょうとした感じで非常に腰の低い方だが、まさに野平一郎という芸術家は鵺のようにつかみどころがないのが特徴といえる。これは僕にも話していただいたが、クラシックの有名作曲家の音楽を愛しつつ、抽象的な現代音楽にも取り組むその姿勢は、多様な世界観を自ら体現しているかのようだ。あらゆる世界が分断される中、野平さんのような人こそが世界に通じるような音楽を生み出すのだ。

*静岡トリロジーなど静岡3部作、その他自身の作曲、作曲家・ピアニストとの両立について

・まず静岡との縁ですが、AOIホールとは開館前から縁が深かった。欧州から帰国したのが1990年なので、静岡とのかかわりは欧州にいた期間とほぼ同じ長さ。愛着のある土地です。東京以外では第2の故郷といえるかもしれません。その関係でグランシップの方でもいろいろ関わっています。

・静岡三部作の構想は2014年、グランシップの専属カルテットのために曲を書いたのがきっかけに生まれました。三部作というのは長年の私の活動の中でも初めて。連作というのはありましたが。三部作は曲の連なりが重要です。もともとグランシップではバロックプログラムがあったので、バロックに近寄らない形を目指した。3曲が様式的で均質なもの、3曲が関連し合うような形になる。

・3曲を並べた時に集大成として、1つの発展がみられるような形にする1つ目が編成の発展、2つ目が長さの発展、3つ目が重要度の発展。音楽的要素の発展を見せたい。静岡に関して具体的にイメージしたものはなく、他県と何か区別するものでもない。Rシュトラウスはこのスプーンとあのスプーンを音楽で描き分けられると言っていたが、私には見つからない。結局は具体的というよりは抽象的なもので、時間や空間の探求ということになる。静岡というとお茶や富士山というイメージだが、空間性、時間性としての方が広がりがある。

・編成バロック的な編成で、チェンバロが入る。弦楽器は1つ1つが必ず2つの音を弾く、つまり重音を使う。2人の奏者がいれば、別々の音を弾けばいい。そうすることで編成に厚みが出てくる。全員がそれぞれ1つの楽器パートをやるイメージだ。現代の作曲家として、弦が壽合奏からどれほどのものを掘り起こせるかに興味を持っている。編成が大きければいいというものではない。

・作曲の際に念頭に置いているのは、弦楽器がいつも指を動かしているということ。つまり音が定まらない。動きているものがあるとゆがみ、ひずみが生じる。現代とそういうものがリンクしている。1作目の「記憶との対話」は、自分自身の記憶でもある。若いころに「錯乱のテクスチュア」という曲から始まったが、これはピエール・ブーレーズが「錯乱状態を組織しなければならない」という一種のアジテーションをしたことをきっかけにして、現代とは何かを探すヒントにした。

・重音が連なるイメージというのは遥かなる日本のイメージもある。私は昔から日本的でないと言われてきたが、これからも日本的なものにはとらわれない。昔から上の世代は日本のイメージにとらわれてきたが、それはいい加減にしてほしい。日本のイメージが固定化されているが、日本はもっと複雑な国だ。固定観念にとらわれず、多様性を重視する。若い人たちは、ぜひくだらない分類やジャンルを乗り越えてやってほしい。まさに三部作はそのような方向にある。

・私は別に自分が現代音楽の作曲家とか、ラディカル、特別なものであるという意識はない。古典音楽を解体しようとしたこともない。ジョン・ケージやクセナキスに入れ込んだこともあったが、創作の歴史を変えたこともない。ピアニストとして古典を弾き続けていることが僕の限界であり、持ち味でもある。ジャズも好きだ。ラディカルであり、古典的でもある。自分としてももがきながら生きている。ブーレーズもそうだが、自分を育ててくれた音楽だけで指揮のレパートリーが成り立っているわけではない。学生のいい人たちにとっても、クラシックや現代音楽というジャンルは頭にないはずだ。

・今音楽は様々な決まりごとが崩れているが、オーケストラやホールという歴史が重なり構造化している部分もある。これは外れるものははじかれる世界、決まりものしかやらない世界だが、ジャンル問わずやる音楽は予測不可能だ。両方の世界を行き来しながら生きたいと思っている。

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