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【読書感想文】戸部田誠『タモリ学』:一つの自由の極地

普段投稿しているジャンルと全然違いますが、「タモリ学」という書籍を読んだので、その感想を紹介したいと思います。


本題に入る前に、本書籍の最後にある言葉を引用します。

「タモリ」は日本人の共通言語になった。

日本人のほとんどが、それぞれの「タモリ」観を持っている。

その人の「タモリ」観を知れば、その人のテレビや物事の見方、価値観を知ることができる。

そうやって語り合い、笑い合う装置こそ「タモリ」という存在なのだ。

戸部田誠(てれびのスキマ). タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か? (文庫ぎんが堂) (p.213). イースト・プレス. Kindle 版.

本記事では、タモリさんの言葉などを通じて、タモリさんがどのような人かを紹介しますが、あくまで私の「タモリ」観なので、読者自身の「タモリ」観を確認するには、本書籍を読むことをオススメします。



タモリさんは何が嫌いか

偽善、予定調和、反省など、本書籍ではタモリさんの嫌いなものが幾つか登場しますが、私が面白いと思ったのは、「意味の世界」が嫌いというものでした。

「意味の世界はきらいなんです」
「いまだにそうです。イヤなんです、意味が」
「ぼくが音楽を好きだというのは、意味がないから好きなんですね」。
タモリはそう断言する。

戸部田誠(てれびのスキマ). タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か? (文庫ぎんが堂) (p.63). イースト・プレス. Kindle 版.

ちょっと抽象的な表現ですが、ここでの「意味」とは、単語やフレーズの意味というよりかは、もっと大きなパターンから読み取る「ストーリー」とか「目的」みたいなものです。

例えばどことなく反戦のメッセージを伝えようとしている絵画や、所々に「団結」という言葉を散りばめたテレビ番組など、白々しい「ストーリー」が見え隠れするものが嫌いなようです。

タモリさんが面白いのは、嫌いではあっても、その「ストーリー」を読む能力が、もの凄く高いところです。

その高い能力ゆえに、例えばテレビ番組の中で伝えたい「ストーリー」が完成する前に、先読みしてそれを崩しにかかったり、別の予測不能な流れへ方向転換したりできます。

そうして「意味の世界」という固定化されたものを自由にし、自身もその自由な流れに身を任せて、予期せぬものが生まれる瞬間に立ち会うのが、タモリさんの求めるものなのかなと思います。


言葉で遊んで言葉から自由になる

上記の話と共通しますが、タモリさんは言葉にも不信感を抱いています。

「いまは現実そのものに何の意味もなくなり、言葉だけが意味をもつかのごとく祭りあげられている。だから、言葉は変化しなくなってしまった。これはヤバイ」
「それならむしろ言葉がないほうがいい。なぜなら、おれたちにとって本来大切なのは、言葉よりも現実。この現実に重みをもたせなければだめだ」

戸部田誠(てれびのスキマ). タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か? (文庫ぎんが堂) (p.77). イースト・プレス. Kindle 版.

タモリさん自身が言葉をよく使う職業なのですが、その言葉が現実そのものよりも価値をもって、目の前にある現実が見えなくなっている現状に、危機感を抱いています。

典型的な例としては、レッテルと呼ばれるもので、「男」や「外国人」などといった、本人の属性の一つでしかない言葉が、その人の本当の姿を歪めてしまうことです。

タモリさんが言葉にどう対処したかというと、壊して遊びました

タモリさんが昔やっていた、デタラメ外国語というネタがその一例で、言葉の意味を壊してデタラメに話しているようでも、なんとなく伝わるメッセージがわかるように身振り手振りを駆使する、というものです。

言葉のリズムや雰囲気は残しつつ、意味だけを壊すことで、観客に目の前の現実に集中させ、言葉から自由にさせるという遊びを、タモリさんは実践していました。

だからタモリは言葉を壊すしかないと考えるようになったという。言葉から逃げることはできない。それなら、言葉を面白くして「笑いものにして遊ぶ」しかない、と。タモリは言葉から意味を剥奪し、その価値を揺るがすことで言葉を自由にし、言葉から自由になったのだ。

戸部田誠(てれびのスキマ). タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か? (文庫ぎんが堂) (p.85). イースト・プレス. Kindle 版.

タモリさんの素敵なところは、言葉の意味だけが嫌いだっただけで、それ以外の現実は肯定的に捉え、それを大切にしているところです。

だから上記のネタでも、言葉の意味だけを剥奪したのでした。

意味は嫌いであっても、虚無主義ではないということです。


一つの自由の極地

上記で紹介したのは、タモリさんが挑んだ不自由の一部ですが、それらも含め様々な不自由から、お笑いという道具を使って解放されることで、タモリさんは一つの自由の極地に達したと考えています。


私にとってのタモリさん

お笑いの世界において、一つの自由の極地に到達したタモリさんは、私にとっては純粋なあこがれであり、真似したい存在ではないです。

実際私は、言葉によってタモリさんを記述して、本記事を書いている時点で、タモリさんの真似はしていません。

どちらかというと、私は言葉に縛られている存在だと思います。

また、タモリさんのように場の流れに身を任せて、自由に振る舞うためには、相当の技量が必要ですが、私にはそんな技量はありません。

ただ1ヶ月に1度くらいは、言葉で伝えることに疲れるときが来るので、その時にタモリさんをテレビなどで見ると、「これでいいのだ」と、何となく肩の荷が降りた気分になれます。

それくらいの距離感であこがれる存在として、私はこれからもタモリさんを尊敬したいと思います。


まとめ

本記事では、「タモリ学」という書籍の感想を紹介しました。

若干哲学的な内容になってしまったことは、ちょっと反省しています。

たぶん人によって「タモリ学」の感想はかなり変わると思うので、もし興味があれば手にとってみてはいかがでしょうか。


長くなりましたが、最後まで読んで頂きありがとうございます。


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