在野で歴史を研究することの意味
現在、私は何の機関にも属さず、歴史の研究を続けています。いわゆる「在野」という立場です。
在野であるということは、研究機関に所属する研究者と何が違うのでしょうか。その長所と短所、また在野の役割について私なりの意見を書いていきたいと思います。ここでは、在野の定義を「どこかの研究機関に所属していないこと」としておきます。また、以下「研究者」はいわゆる大学などに所属している人々、「在野」は無所属を指します。以下はあくまで個人的な見解です。
1.在野であることの長所
⑴まず在野であることの長所の一つとして、時間の自由さがあげられます。大学などの研究機関に所属していると、当然ながら他の事柄(講義やそれに伴う作業)にある程度の時間を費やさねばならないでしょう。
その点、在野であれば自分の好きな研究に没頭でき、その他の余計な業務に時間を費やすこともほとんどありません。いつ仕事をして、いつ休むのかさえ自由です。以前私も編集者に言われたことがあるのですが、「フリーはその気になればずっと休むこともできるし、ずっと仕事することもできる」というわけです。
⑵また、正統な歴史学者では研究しづらいテーマにも手を出すことができます。史料が少ない、学問的な業績になりにくいなど、探せば研究者が手を付けていないテーマを見つけることはできます。
あえて研究者の手法ではやりづらい「イフ」について語るというのも在野ならではでしょう。私も、新刊の『永田鉄山と昭和陸軍』においては「もし永田が生きていれば」という点について言及しました。
もちろん、「好き勝手に想像を膨らませてモリモリと架空のストーリーを語る」というのは厳に慎まなければなりません。「どこまでが良くてどこまでがだめか」という線引きは非常に難しく、一概に言えるものではありません。だからこそ、書き手が「○○という可能性もあったのではないか」という態度からはみ出して自分のストーリーを断定的に語るのはご法度だと、常に自戒する必要があります。
2.在野であることの短所
次に、在野で歴史を研究することの短所について。
⑴まず簡単に思いつく事柄として、「生活がなかなか安定しない」という点が挙げられます。研究者であっても非常勤講師の方などは金銭的に厳しく、アルバイトなどをして糊口を凌いでいる方もいるようです。
しかし、ある程度の地位まで来て、それなりの報酬を受けるようになると、生活は安定するでしょう(もちろん仕事をして相応の報酬をうけるのは当然です)。毎月一定の収入がある、というのは大きいでしょう。
対して、在野でかつ副業などをもっていない人間であれば、なかなか生活は安定しません。もちろん、連載を持っていたり、多くの著作がある誰でも知っているような大御所は別です。しかしそういう人は決して多くはありません。
私も処女作を書き上げる間はアルバイトをし、今回新刊を出すまでは印税や賞金を切り崩したり、恥ずかしながら親に援助してもらったりしていました。幾度か原稿を書かせて頂いたこともありますが、連載を持っているわけでもないので、安定しているとは到底言えません。
私はまだ実家住まいという点では大変恵まれていましたが、もし一人暮らしでアルバイトをしながらだったら、新刊の執筆はかなり遅れていたと思います。精神的余裕を失い、質も落ちたかもしれません。そうなると、出版社の方でも原稿の依頼は出しづらいでしょう。仕事の依頼が来てもそれだけでは生活出来ないのでアルバイトをする、すると仕事が遅くなる、すると依頼が来なくなる、余計に副業に精を出す必要が出る…。悪循環です。精神的な余裕も無くなります。
先程の「長所」で述べた「自由な時間」のメリットとは矛盾するようですが、定収入があって金銭面での心配をさほどしなくていい研究者(一定の地位にある)に対し、常に収入の心配をしなければならない在野は、精神的な面での自由度が低くなると言えるでしょう。
⑵そしてもう一つ、「研究」という面に関する根本的な問題ですが、在野による少なくない著作物が「学問的批判に耐えない」という事です。
合理的に数値化した訳ではないので断言はできませんが、在野でいわゆる「研究者」を名乗る人物のうち、「史学科」(近現代史であれば法学部の政治史研究など)出身の人物はかなり少ないように思えます。
もちろん、史学科出身者以外が歴史を研究するのは大いに結構ですし、専門家には気づかない視点などを提示する人もいるでしょう。
しかし残念ながら、そうした人物はあまり多くはありません。中には、小説と区別のつかないような本を書いて(それを小説として発表するのではなく)、「真実の歴史」などと宣う人もいます。
歴史を書く上で最も大切なものの一つは「史料」の取り扱いですが、彼ら彼女らはこの基礎的な作業をすっとばし、ひたすらに想像を逞しくし、史料に基づかない自説を述べます。
歴史学者は丹念に一次史料を読み解き、しばしば古文書のくずし字解読に注力します。それらの史料を発掘してくるのも、多く歴史学者です。近世以前では、古典文法にも通じていなければならないでしょう。つまり、活字化された史料を活用してなんらかの著作物を書くにも、基礎的な作業は研究者の努力によっているわけです。
「仮説」を立てるには、そうした作業に加えて先行研究を子細に検討し、その上で行う必要があります。
私は単なる学部卒で、それも優秀な学生とは言えませんでした。しかし、歴史を研究する面白さ、そして難しさの一端ぐらいは分かっているつもりです。恩師の姿を通じ、研究者がいかに真摯に歴史に向き合っているのかも。非常に高いレベルで切磋琢磨し、常に学説を戦わせている研究者の実力は、やはり侮りがたいと言わざるを得ません。
もちろん、「だから在野は研究者を批判するな」などとは言いません。むしろ、大いにやるべきだし、萎縮すべきではないと思います。
しかし、在野とは言え歴史の分野で研究者を批判するなら、基礎的な手法(史料批判など)は最低限理解すべきでしょう。ケンカの強い素人がプロボクサー挑むのはいいですが、ボクシングのルールも理解していないのではどうしようもありません。
そして、古文書読解や史料の発掘など、土台となる部分を研究者に任せておきながら、その仕事を軽視するのは論外です。この点、自戒をこめて強く言っておきます。
3.在野の歴史研究者である意味
以上を踏まえて結論に移りたいと思います。
在野としては、まず史料批判という方法を理解し、先行研究を多少なりとも調べること。きちんとした史料を用い、今何が論点になっているかを知る必要があります。学界ではすでに否定された話を、一般書で得々と語るのはお世辞にも褒められたものではありません。
しかし、研究者と同じことばかりしていても仕方がありません。史料を元にしながらも無理のない範囲で推論し、文章を磨いて生き生きとした「人間」を語るのも必要だと思います。
この「血の通った人間を語る」という部分は、在野が研究者を上回る可能性がある部分ではないかと思います。ただし、この部分だけ突出して研究的手法を無視すると、途端に「フィクション」になってしまいます。
以上、よくまとまらないまま拙い「歴史研究者論」を書いてきました。むろん、上記の苦言の多くは自分に言聞かせるためのものでもあります。これからも「良き在野の歴史研究者」であるべく努力しますので、ご支援頂ければ幸いです。
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デビュー作です。出版まで五年ほどかかりました。山本七平賞で「奨励賞」受賞。