フェス犬

『線でマンガを読む』奥田亜紀子

つい最近発売された、奥田亜紀子のマンガ短編集『心臓』がとても良かった。夢中になって一気読みしてしまって、そのあとに、ちょっと後悔した。すごく繊細な料理を、手づかみで一口で食べてしまったような気分だ。もっとじっくり味わって読むべきだった。

すばらしいのが、光の表現だ。太陽の光や、蛍光灯の光。木造家屋の、ガラスや障子を透過して畳におちるにぶい光、木々のあいだを抜けて渓流に切り込む光。モノクロのマンガの、トーンワークによって、表現される多種多様な光。すばらしい観察力。

(『心臓』P106)

こういうのは、絵を描こうと思いたってから考えて描けるものではないと思う。原稿に向かう、もうずっと以前、呼吸をして、食事をして、眠って、24時間を過ごしている最中に、奥田はずっと考えていたんだと思う。マンガを描くずっと前からだ。考えている、というか、感じていたんだと思う。「ああ、手すりに光が跳ねているな」「畳の細かい線に、光が滲んでいるな」とか、そういう感覚と無意識と意識の境界に遊んでいるようなことだ。

(『心臓』P98)

階段に転々と注ぐ、三角形の光。階段についている手すりやその他なんだかんだの影響で、こういう不思議な形の光が形作られているのを、多分、作者はどこかで見ている。見たうえで、「なんか変な光のかたちだな」という感覚が、残っていて、それが何年か、あるいは何十年かして漫画になって再び現れて来たんだなあ、という感じがする。

そして、奥田がマンガに描くのは、多種多様な光のかたちとともに記憶されている、時々の感情だ。子どものころに、実家の木造建築の家に注ぐ光のなかで、マンガを描きたいけどその方法が分からなくて悶々としていたこと。階段に反射する光を頬に受けながら考えていた、友達への嘘。学校の校舎で、いつもひとりで鬱々としながらも、それでも窓から差し込む光だけは美しい。なんでだろう。

(『心臓』P19)

自分が悲しくても、嬉しくても、孤独でも、なにか満たされないものがあっても、そんなことはお構いなしに、いつも自分の周りには光がさしていて、複雑怪奇にかたちを変えながら自分を照らしている。なんでだろうか。奥田のマンガには、そういう、光の記憶と、そのときの感情が密接不可分になって描かれている。深い観察眼に基づいた光の表現とともに、作者の感情を追憶する、美しい短編集。

(『心臓』P161)

※本コラム中の図版は著作権法第三十二条第一項によって認められた範囲での引用です。

『心臓』 奥田亜紀子 リイド社 2019


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