見出し画像

ほんの小さな幸せだとしても… --- 映画「マロナの幻想的な物語り 字幕版」レビュー 多少ネタバレあり

最初に申し上げておきますが、僕はほんの1週間前に18年共に暮らした愛猫(オス)を看取ったばかりで軽いペットロス状態にあります。なので、少々おセンチな文章になってしまう可能性がありますが、そこはご容赦ください。

僕の猫は3年ほど前から糖尿病と腎臓病が悪化し始め、その後肺炎になったり汗腺嚢胞を併発したりして最後は骨と皮だけになって力尽きました。幸か不幸か新型コロナの影響で在宅勤務だったために、最後の一息を吐くまでそばにいてやることができました。彼を看取ることがどんなにつらいかと数年前から身構えていたのですが、看病の間にきちんと心構えができたことと、早く楽になってほしいという気持ちの方が強くなってきたおかげで、落ち着いて彼の死を受け入れることができました。

彼は公園の立木の下で震えていたところを僕たち夫婦に拾われたのですが、家に連れて帰り身体の掃除をして膝に乗せていると一瞬彼が正面から僕の顔をじっと見つめていることに気が付きました。そのとき僕を親と思ったのか飼い主と思ったのかわかりませんが、とにかく自分を守ってくれる人だと思って安心したみたいでした。死ぬ間際、抱き上げると彼はその時と同じ目で僕を見ていました。猫は「自分が死ぬ」という意識はあるのかな、「お別れ」だということがわかっているのかな、そして彼は「自分は幸せだった」と思ってくれているのかな、と僕はそんなことを考えてました。

-----

この映画の主人公、雑種犬のマロナは生まれてすぐに捨てられてしまいます。その後マロナは3人の飼い主と出会い、その度につかの間の幸せを得るのですが、どの幸せも長くは続かずやがて別れの日が訪れます。物語を要約しようとすると本当にこれだけの話です。飼い主との別れもマロナは意外なほどにあっさりと受け入れてしまい、次の飼い主のもとで、その場所なりの小さな幸せを見つけて生きていこうとします。それがマロナの生き方なのです。

Happiness is a small things.
幸せはほんの小さなこと

この作品の主題歌の一節です。

これ、間違えちゃいけないと思うんです。この歌は決してマロナの歌ではなくて、マロナの生き方を通して私たちに向かって歌われている歌だと思うんです。なぜならこの歌で歌われている一つ一つの「幸せ」はマロナにとって決して小さなことではないからです。

例えば最初の飼い主マローナに抱きしめられるシーン。その表現の仕方はぜひ劇場で確かめて欲しいので詳しくは書きませんが、マローナに愛されることがマロナ(この場面ではアナという名前なのですが、わかりにくいのでマロナで統一します)にとって世界の全てと言ってもいいくらいの出来事であることがわかります。この作品では人物も背景も写実とは程遠いデフォルメされた作画で描かれているのですが、その独特の作画によって、逆に愛情や喜び、幸せ、あるいは不安、恐怖、孤独といった「本来目に見えないもの」がとても豊かに表現されているのです。うまく書けなくて歯がゆいのですが、この作品では画面がマロナの内面とマロナを取り巻く世界を自由に往き来します。その自由さを獲得するためにこそ、あえて写実的ではない表現が選択されたのでしょう。その試みは成功していて、マロナにとってマローナと共にいることが世界の全てで、その一瞬が永遠であることが効果的かつ感動的に表現されていて心奪われます。これが「ほんの小さなこと」であるはずがないのです。

僕の猫はいよいよ体が動かなくなって顔に表情がなくなってきた時でも、僕の腕に抱き上げたときだけは僕の顔をじっと見て、安心したような表情を見せていました。彼の一生は、食べること、遊ぶこと、うんちすること、おしっこすること、寝ること、それが全てだったし、彼にとっての全力の幸せだっただろうと思います。そう考えると、僕たち人間は彼ら動物に比べて、幸せを図る物差しを持ちすぎているように思います。物差しを持ちすぎることで、ひとつひとつの幸せが小さく見えてしまっているのかもしれません。それは多分、不幸なことです。

僕の猫が最後の時を迎えつつある時、僕が抱き上げることで彼が少しでも幸福感を得てくれたらいいと願って抱いていました。そして今日、マロナとマローナのシーンを見ながら自分と愛猫をその姿に重ねずにはいられず、バカみたいに泣きました。僕には僕の猫の本当の気持ちはわかりませんが、こんなふうに幸せを全身で感じながら息を引き取ってくれただろうと信じられる気がして、救われた気持ちになりました。

僕と猫の話はここで終わりますが、マロナの物語はさらに続きます。マローナと別れ、大工のイシュトバンとの出逢いと別れがあって、最後にソランジュという少女との出逢いの果てに悲しい出来事が起きてしまいます。マローナやイシュトバンとの別れでは自分の置かれた状況を受け入れてきたマロナですが、ここでは違った行動を起こします。マローナ、イシュトバンとの別れのシーンではマロナの心情が言葉で明瞭に語られますが、ソランジュに対して起こすマロナの行動の動機については、最後まで言葉で語られることはなかったと思います(ちょっと自信ないです)。

マロナが何を感じなぜその行動にでるのか、その答を求めようとしても私たちには画面を見守り続けることしかできません。ここで僕は初めてマロナとの間に人と犬との距離を感じました。言葉は通じない、でも気持ちはわかりあえている、動物を飼っていると日々何度も感じるそんな思いを、この作品からも感じ取ることができました。

さて、マロナは何をするのか。物語がマロナの死から始まっていることは既に公表されているので結末は決まっているわけですが、どうしてそこに至るのか。これからご覧になる方はマロナの行動をしっかりと見届けて欲しいと思います。

僕はこのあとのんさんがマロナを演じる日本語吹き替え版も見るつもりです。先日一時的に公開された冒頭10分の吹き替え版映像では正直まだ評価しかねる感じでしたが、今日字幕版を全て見た感触ではなかなか良さそうです。大声で泣いたり叫んだりするような大芝居はありません。しかし物語を俯瞰して淡々と語る役はのんさんが最も得意とするところでしょう。それに加えてのんさん独特のユーモラスな空気が滲み出ると、オリジナルとは一味違うマロナ像ができあがりそうです。こちらはこちらでまた別に感想書きます。

僕はこの作品を見て、小学生の頃に日比谷スカラ座で見た「スヌーピーの大冒険」という映画を見てなんとなく切ない気持ちになったことを思い出しました。たぶん映画の内容をきちんと汲み取れる年齢ではなかったはずですが、それでもただ楽しいだけではない、ちょっと胸の奥が苦しくなるような記憶は鮮明に残っています。「マロナの幻想的な物語り」は物語のテーマも、その表現手法も、小さなお子さんが全てを理解するのは難しいと思います。でも意外と子供は子供なりにきちんと受け止めているものです。今のアニメ映画はとても説明が丁寧だし、作画も緻密で美しいのですが、そういういたれりつくせりの映画に慣れてしまう前のお子さんにこそ観てほしいなと思います。今はわからないかもしれないけれど、いつまでも心のどこかにひっかかり続けるような、そんな作品だと思います。

まだまだ暑い日が続きます。渋谷ユーロスペースは駅から少し距離がありますので、帽子を忘れずにお出かけください。観るに値する作品であることは間違いありません。強くお勧めします。


最後に18年前の愛猫ユキのマロナっぽい写真を1枚。いい子でした。

画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?