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リタ・モレノの「どこか」は遠く --- 映画「ウエスト・サイド・ストーリー」レビュー ネタバレあり

実はもう何ヶ月も前に観に行った映画なのですが、原稿を下書きのまま保存しておいたら、その間に世界がガラリと変わってしまい、書きたいことが全く変わってしまったので一から書き直しています。

今の今まで書くことができなかった理由を自分なりに考えてみたのですが、結局僕はこの映画が好きではなかったのだと思います。低評価、というより好きになれなかったということです。

私はロバート・ワイズのウエスト・サイド物語を見てミュージカルの魅力に取り憑かれて以来、劇団四季の公演も何度も見ているし、少年隊のWSSも見てる(相当いいですよ。特に植草克秀!)。ブロードウェイに足を運んだことはないけれど、91年のジェローム・ロビンス・ブロードウェイの来日公演はほぼ最前列に近い席と少し舞台から距離をおいた席で2回見た(このWSSのパートの出来がまた素晴らしかった!)。まあ私より好きな人は世界中にゴマンといると思いますが、私だってこれくらいのWSS好きではあるわけです。

また、監督のスピルバーグについても、私のオールタイム・ベスト・ムービーにおける1位は未知との遭遇、2位はジョーズ、もうこれはほぼ不動なわけです。まあAMBLINを設立して以降のプロデューサー路線には合わないところはありましたけれど、「彼の監督作品」となるとやっぱり今でも絶対の信頼を寄せてました。僕はスター・ウォーズより宇宙戦争、アベンジャーズよりレディ・プレイヤー1を押すタイプなのです。

だから期待してたんです、スピルバーグのWSS。

最初は一体何が不満なのか自分でもよくわかりませんでした。
スピルバーグが真面目すぎるほど真面目に本作に取り組んだことは画面からも伝わってきます。でもそれが感動につながってこないという、こんなスピルバーグ映画は始めてです。何度も聴いているバーンスタインの曲、出だしだけでもう泣いてしまえるような曲を映画館の素晴らしい音響で聴けるだけでも最高!だったはずなのに。

実際この感想は私だけなのかと思い、twitterを見てみたのですが、「良かった!」「感動した!」という声も多少はあるものの、スピルバーグ映画の反響としては少ないなあと感じます。コロナの影響を差し引いたとしてもです。

さて、ここからが私の正直な感想です。
今一番感じていることは、映画の嘘と舞台の嘘は違う、ということ。そしてウエスト・サイド・ストーリーは舞台の嘘の中でこそ輝く作品だということです。

舞台って劇場という限定された空間のなかで照明、装置、音楽、演技のちからで大きな嘘を付きながら観客の想像力を刺激していくものだと思うんです。例えば冒頭、若者たちのダンスで何故私たちはそこをニューヨークのウエストサイドだと思えるのか、それは演出家が舞台上のあらゆる手段を使って大きな嘘をついて、その嘘を観客側が想像力もって受け止めることで観客の心の中に芝居の舞台となるニューヨークが現出します。そういう意味では舞台というものは見る側にも相応の想像力が要求されると言っていいでしょう。

今回のウエスト・サイド・ストーリー、スピルバーグはこの物語をより現実世界にリアルに落とし込もうとしたように思います(冒頭のカミンスキーのカメラなんか宇宙戦争の続編が始まるのかと思いました)。キャストは人種にこだわった上で、しっかりと歌って踊れる俳優を選び、画面の演出もワイズ版をしっかりリスペクトしながらも、実は演劇的な嘘を極力配しているように見えました。たぶん僕がそう感じたのは僕が「演劇的な嘘の付き方」を愛しているからだと思います。

一つ例を上げます。
ダンスホールのシーン。ジェッツとシャークスのダンス対決、トニーとマリアの初めての出会いと、とても中身の濃い場面です。
ダンスフロアでの熱狂の中で目があったトニーとマリアはお互い目を逸らすことができなくなってしまい、二人だけの世界に突入していきます。舞台ではその瞬間に照明が代わり、アンサンブルのダンスは熱狂的なマンボから静かなチャチャへと移行します。照明が落とされアンサンブルがシルエットとなって浮かび上がる。そして暗くなった舞台上でトニーとマリアにスポットがあたり、二人の距離が自然に近づいていく…。まあ早い話が最高にロマンチックなシーンなわけですけど、その舞台的なロマンチックさをスピルバーグは良しとしなかったみたいです。

今作ではトニーとマリアは二人で揃ってジムのものかげに隠れることで二人の世界を作りだします。まあ実際には周りでやかましくマンボを踊っているど真ん中で「二人だけの世界」に没入するなんて無理!なのは百も承知なのです。それでも!だからこそ!周囲のすべてが見えなくなるくらいに強く惹かれ合う運命の強さを感じるってものじゃないか!…とつい熱くなってしまうわけですが、どうやらスピルバーグさんはそうはお考えにならないらしいのです。物語としては序盤の出来事なんですが、今思うとこのあたりから徐々にこの作品を冷めた感じで見始めていたように思います。

すべてがそんな感じで、この作品にリアルさを求めた結果、逆にミュージカルの「おかしなところ」が際立ってしまったようにも見えました。まず、キャストですが、主演はともかくとしてジェッツもシャークスも全員ガタイが立派すぎでムキムキのダンサー体型だし、見た目にも大人すぎて、悪童としてつるむような年齢にはとても見えないし、路上でのバレエも今となってはフラッシュモブに見えてしまうというのがどうにも残念。ワイズ版のキャストにはまだワルガキっぽさがあったと思うのですが…。

もちろん見るべきところもたくさんありました。アリアナ・デボーズのアニタは素晴らしく、「アメリカ」は今回のナンバーの中で一番成功していたように見えます。レイチェル・セグラーのマリアも言われているほど悪くなかったと思います。ただトニーは最初に「大谷翔平に似てる!」と思ってからもう最後まで大谷にしか見えず、残念でした。こちらもタッパがありすぎてマリアとのバランスはあまり良くないと感じました。

最後に、リタ・モレノについてです。トニーが働くドラッグストアの主人を、ワイズ版でアニタを演じたリタ・モレノが演じています。物語の当事者から一転、若者たちの行動を見守る側に役を移して再登板を果たすという一報を耳にしたときはとても心が昂りました。当然私は凄く感動できると期待していたのですが、結果的には上手くハマれませんでした。特にリタ・モレノにSomewhereを歌わせる演出は私には疑問が残ります。

このSomewhereというナンバー、ベルナルドを殺したトニーがマリアとともに「どこかにある争いの無い世界」に向かうことを決意する際に二人が夢見る世界、つまりジェッツとシャークスが仲良く暮らす世界が表現されるシーンで歌われます(またしてもこのシーンのバレエは削られてしまった!)。憎悪と絶望の渦の中で本当に儚い僅かな希望を無理やり見出すしかないトニーとマリアを見ながら、観客席の私たちはこの先に迫る悲劇を予感するしかありません。そこがこのシーンの心揺さぶるところです。ここの大前提はトニーとマリアの気持ちを誰もわかってくれない(特に大人!)ことで、だからこそ宛の無いSomewhereに旅立たねばならないわけだし、唯一の理解者であるアニタの思いすら崩壊してしまうという展開が辛いわけです。

本作では、ここで理解ある大人を出してしまったせいでマリアとトニーの夢の儚さがどこかへ行ってしまい、本来のWSには存在しないなにか大きなテーマに置き換わってしまったように私は感じたのです。スケールの大きなリタのナンバーからマリアの悲劇にうまく戻ることが、私にはできませんでした。

確かに今リタ・モレノがSomewhereを歌えば、多くの人の感動を呼び起こすのは間違いありません。50年たっても差別は無くならず格差も貧困も増える一方の世の中を見てきたリタがそれでも「どこか」を信じて歌うことが素晴らしく無いはずがないのです。

でも、それはウエスト・サイド・ストーリーの中で歌われるべきではない、というのが私の意見です。それはリタ・モレノのコンサートで聞かせてほしかった。

リタ・モレノを再登板させてSomewhereを歌わせる。その案を思いついた時、スピルバーグは膝を叩いたはずです。実際それは素晴らしいアイデアだったかもしれませんが、いかにもハリウッド的な発想だと思います。結果としてこのウエスト・サイド・ストーリーは「リタ・モレノのウエスト・サイド・ストーリー」になってしまったな、というのが私の感想です。とてももったいなく、残念です。スピルバーグに撮らせるなら、ロミオとジュリエットを題材にした全く別の作品にするか、既存の作品ならジーザスクライストスーパースターのような演出の自由度の高い作品にすべきだったと思います。

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