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ガラス

「ボランティアしているなんて、偉いね」

 ボランティアをしていると話すと、そう言われることがある。「社会貢献について考えているなんてすごい」「この人は、きっと”真面目ちゃん”なんだ」――自分の中では、ボランティアをすることや、そういったことを考えるのは、したいしたくないに関わらず、つい考えてしまうからこそ行動したことだ。しかし、それが特殊な感覚であることを知り、そう考えることをしない・できない人もいることを最近になって知った。だから、私がボランティアをしている、と伝えたときに、相手は相手が持つフィルターを通して私を見て、純粋にすごいというときもあれば、そういうのに関心を持っているなんて自分とは違うと考えるときもあり、偽善者のように見えるときもあるのだろう。

 きっと、言葉は投げてしまった時点で、相手のものになってしまうのだ。私のために発した言葉も、相手にねじ曲げられる。それが解釈というものだ。ねじ曲げられたものが、私にとってうれしいものなのか、かなしいものなのかは決まっていない。けれど、たまに相手のその言葉が、私にとってちくりと針を刺すような痛みになることがある。「あ、今、線をひかれた」と。「きっと、面白くない人だと思われただろうな」と。

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相手が自分を見る時って
その人の価値観っていうフィルターが入るから
そこに込めた自分の思いが全て
正しく伝わることなんてまずないんすよ
(シバタヒカリ, 劇団雌猫『だから私はメイクする』より引用)

 漫画の中で、この台詞が書かれたコマの絵が印象的だった。自分と、相手と、相手の価値観が反映されたガラスに映る自分の姿。どうしたって、私たちは自分にある価値観から逃れられない。逃れたとしたら、それは自分ではない。相手をありのままに映すことができることは、自分と相手の輪郭がないことだ。そのガラスがあるからこそ、私は私でいられる。

 そして、そのガラスがあるからこそ、勘違いやいさかいが起きたり、大きなところでは差別や戦争が起こったりするのも、また事実だ。「ボランティアをしている」という私の一側面は、きっと聞いた相手の経験から「真面目な人がやるもの。意識高い系。」みたいな分類に振り分けられることがあって、それを通して私を見たときに「この人は意識が高いんだな。ちょっとめんどくさそうだな」と思われることもあるのだと、少し思ってしまう。私だって、ボランティアをしています、と言われたら、「どういう意図でそれをしているのだろう。誰かのため? 自分のため?」と色々考えてしまう。

 誰かのガラス越しに見る私は、一体どのように映っているのだろうか。良く見えているのか、悪く見えているのか。けれど、誰かに見られている私の姿――誰かのガラスに映る私なんて、私が簡単に変えられるものでもない。まして、私が誰かにこう見られたいなんてこともない。ただ、私は相手をどんなガラスを通して、言い換えるならば、どんなフィルターを通して見ているのかが気になった。

 自分の信念があるのは良い。けれど、それが強すぎれば、相手を見るときのフィルターのガラスが、曇ってしまう。ガラスが曇れば、相手を見るときによく見えないし、間違った解釈をすることもあるだろう。相手の発言を相手の文脈で受け取れないこともある。それは、私にとって悲しいことだ。

 だからこそ、私はそのガラスを定期的に掃除する必要があるのだ、と気づかされる。私は何かについて、こういう先入観があるのかもしれないと気付くこと。そうして、曇ってしまったガラスを拭く。相手のありのままの気持ちが、きちんとこちらに伝わるように。そして、私の信念が、相手に再解釈されないように。

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 自分のフィルターというガラス。それは自分を守る盾であり、誰かを傷つけ得る剣だ。それは私のための防具であり武器だ。それがあることをきちんと理解した上で、手入れをすること。誰かと話して見たり、美術館や映画館に行ったり、音楽に身を委ねてみたり。ガラスを掃除するのは意外と面倒くさい。けれど、掃除した後は格別だ。そして、私にとって拭かずにとっておこうと思える曇りはどんなものだろうと、少しだけワクワクもしている。

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