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お出かけに寄せて

 ゴールデンウィークは、少し遠出をすることになった。初日が雨なのは何となく気が重いけれど、それでもお休みであることはそれだけで特別で、楽しみがなくなる訳じゃない。

 電車の乗り継ぎをしていると、他の人もどことなくお休みを満喫している人が多く、キャリーケースを引いている人や、小さな子供連れの家族がいた。私は自分の計画しか知らなくて、こうやってお出かけをする人がたくさんいるんだなぁ、とふと思う。

 ここ最近、会えなかった誰かに会いに行ったり、顔を見せに行ったりする様子を見ると、嬉しくなる。きっとお出かけをする当人たちは、嬉しい人もいれば、少し面倒に感じる人もいるんだろう。でも、そんな感情が動かされること自体が、私には「いつもの生活」が少し戻ってきたように思える。もちろん、まだ気を付けるところはきちんとしていかないといけないけれど、少しずつ、少しずつでも、前みたいな感情のやり取りが取り戻されていることに、心があたたかくなる。

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  旅行をする、というのが難しい世の中になった。もともと遠出するのが好きな方ではなかったから、大きなショックは受けなかったし、家にこもる理由ができてラッキーとも思えた。けれど最近になって、旅行をすることはとても興味深いなと思うようになった。

 小説を書いたり、こうやってnoteで記事を書いたりすると、上手い下手は関係なく、真っ白なところからこうして生み出すことはすごいなと純粋に感心する。元々は何もなく、ただの抽象的な考えでしかなかったものが、文字によって白い紙が黒くなっていき、誰かに伝えることができる。すべての作品に当てはまると思うが、それがとても面白い。

 そういう考えを用いると、旅行というのはなかったはずのものをあることに変えることだと考えられる。人生になかったはずのものをつくるという点では類似しているが、作品はモノを残すのに対して、旅行は経験を残すことが最終的なゴールになる。作品は頭の中にあるものを頭の外に出し、固定的な結果をつくるもので、旅行は考えた過程を頭の外に出すだけではなく、それを行動として実行し、流動的な結果をつくるものだと。

 作品は頭で考えたことを固定的な何かにしか置き換えられないけれど、旅行の結果は「今」の連続でしかないから、旅行の結果を見ることはできない。旅行の結果は、作品の評価に当たる部分が旅行の結果になっていく。経験は作品のように、これといって差し出すことはできない。成果物を見せればとりあえずは伝えたことになる作品に対して、旅行は渡したらすべてを伝えたことになるものやことはない(原作がある制作物⇔原作は「今」その瞬間の旅行)。

 作品を見返して感じ方が変わってきていると思うときはあるが、旅行はある意味でその感じ方が結果になる。作品では評価であった感じ方が、旅行では結果が刹那的で具体化できないがゆえに、評価であるはずの感じ方が結果になり得る。

 だから、私は旅行やお出かけに関わる、あの感情に好意を持つのかもしれない。それが嬉しそうでも、面倒くさそうでも、それ自体がお出かけの1つの結果として、ずっとその人に残り続ける。嫌だったことも好きだったことも、経験はその感じ方が評価ではなく結果になるから、なんだか特別感がある。お出かけは、絶対になければ生きていけないものではないけれど、そのなくてもいいからなかったことが、無理矢理でも自発的でも誰かの意思によって、あることに変わっていく。経験として蓄積され、思い出すときによってそのお出かけへの感じ方を変えながら、なかったそれを当たり前のこととして受け入れていく。

 お出かけをする人も、家で過ごす人も、働く人も、このお休みで得た経験をずっと抱えて生きていく。そういう平等感は、何となく好きだ。

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