人に成ること
自分が本当に好きだと思うものや、本当に考えていることを誰かに言うことができない。言おうとすると涙が止まらなくなるし、口に出してもその後は「なぜ言ってしまったんだろう」と悲しくなってしまう。不便だと思うことはあっても、それを改善したいとは思わない。それらの〈本当〉とはきっと、自分の一部であり、あるいは、自分であるからだ。
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小学生のとき、「疲れたから動けない」と教室の端っこで泣いたことがある。運動会が終わった次の日のことだった(曖昧だけど)。「みんな疲れているのは同じだよ」と先生は言った。それが、記憶にある限りで、初めて「言っても伝わらない」と感じたことだった。きっとどれだけ疲れたかを話しても、起因は運動会になるのだと思う。当たり前だと思う。けれど、私は運動会自体に疲れたのではない。それを取り巻く出来事や感情に疲れたのだ。誰かを応援することや、誰かが勝ち、負けること。それについていろんな意見を言い、人々が個人の価値観を持って出来事について判断を下していくこと。そういったことを知らず知らずの内に読み取っていたからこそ、私は動けなくなったのだ。
小学生のときの記憶と結びつけて今の自分の考えを話しているだけで、小学生のときにそう思っていたわけではない。今、このことを言えるのは、きっと自分の中で〈本当〉ではなくなったからだ。正確に言うなら、私の今の考えと結び付いたその出来事は、もう小学生のときの自分が感じた出来事とは違い、別の出来事になっているーー私にとっての〈本当〉ではなくなっているということだ。自分の一部であり本体であった出来事は、時間を経て、私によってデザインを施された。デザインされていれば、私は話せる。デザインされていなければ、私は話せない。話したくもない。話したところで、きっと受けとる相手の反応がまた私を無意識に傷つけるから。
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体調が悪い悪いと言っていたら、いつの間にか20歳になっていた。今、本当に好きなものもいつかは誰かに話されて、今、本当に考えていることもいつかは言語化される。それらが増えていくのが、きっと人に成るということなのだろう。それが、善いことなのか、悪いことなのか、私にとって好ましいことなのか、嫌なことなのかは、あのどこまでも続くかわからない景色を手探りで進んでいかずとも、何となくわかっている。けれど、その答えを知るのは、今じゃなくてもいい。そう思えることそれ自体が、とてつもなく有り難いことだと、私は知っている。
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