見出し画像

シェイクスピアとジェームズ一世―福田恆存の尊王バイアス

 福田恆存はシェイクスピアの『マクベス』について、ドーヴァー・ウィルソンの説に依拠しながら、「『マクベス』はジェームズ一世に捧げられた作品であり、「作者は「惡魔研究」の著者ジェームズ一世の眼を意識してゐたこと明瞭である。さらに大きな根據は、スコットランド王家の出であるジェームズ一世への讚美が、この作品の筋書と密接に結びついてゐることだ」と述べている。

 しかし、ジェームズ一世は大の魔術嫌いであり、即位してすぐに魔女狩りを強化したほどで、『悪魔学』を執筆したのも、妖怪学の井上円了と同様に迷信打破が目的であった。

 先代のエリザベス一世が重用した占星術師ジョン・ディーを遠ざけ、レジナルド・スコットの『魔術の暴露』を焚書処分にしているが、シェイクスピアは『マクベス』の執筆に当たり、実はこの『魔術の暴露』を参考にしていた。

 『マクベス』と同じく後期の作品である『テンペスト』に登場する魔術師プロスペロは魔術の研究に没頭して政治を蔑ろにした結果、実弟の陰謀によってミラノ大公の地位を追われたという設定であるが、プロスペロのモデルがジェームズ一世やジョン・ディーだったとする説もある。

 当時の記録によれば、『マクベス』も『テンペスト』もジェームズ一世の御前で上演されているが、観劇したジェームズ一世の心中は穏やかではなかった筈である。というのも、穿った見方をすれば、ハムレットが王位を簒奪した叔父に劇を観せて試したように、賞賛していると見せかけて、ジェームズ一世に対し、かなり危険な当て付けを行っていたと解釈することも出来るからである。

 シェイクスピアの作品は、人間の犯す間違いや愚かさによって引き起こされる悲喜こもごもを笑い飛ばす点にその特徴があるが、身分制度が強力だった時代にも拘わらず、舞台を遠い昔の遠い異国に移し変えただけで、王候貴族達が失敗を繰り広げる娯楽劇を執筆するのみならず、それらの作品を王候貴族達の前で上演してしまうという大胆不敵なことをやってのけたわけである。

 シェイクスピアにとって「人生は舞台。男も女も皆役者にすぎない」のであり、「実人生の影」である芝居の中では平民の役者が王侯貴族の人生を生きられるわけである。「実人生」でも身分に関係なく人間は皆運命に大きく左右されるわけで、人生経験豊富なシェイクスピアからすれば、世間知らずなジェームズ一世が主張する合理主義的な考え方では、複雑な人間心理や人生の神秘は分からないとでも言いたげである。これはもしかするとシェイクスピア流のひねくれた諫言なのかもしれない。

 恐らく福田恆存は保守の論客ゆえに国王一座のシェイクスピアが見ようによっては不敬とも取れるような行動に出たとは想像すら出来なかったのだろう。まるでシェイクスピアの高笑いが聞こえてくるかのようだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?