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歓待される喜び、そして、歓待する喜び。それらがともにある関係性をさぐりたい。

縁あって、「観光」について考える機会が増えた。あるひとから聞いた「観光は行き交い」という言葉がずっと響いている。行き交うことによって生まれてくるもの。

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ベルリンに住んでいたころ、歓待されることの喜びを知った。いろいろと親身になってくれてお世話になっている hiromiyoshii gallery の吉井さんに、「ドイツに行くなら会うといい」と、ベルリン近隣在住の二人のアーティストを紹介してもらってから、日本を発った。

連絡を取ると、二人ともすぐに返事をくれて、会いに行くことになった。
ひとりは現代画家のAndré Butzer。ベルリンの南部、Rangsdorfというちいさな村に住んでいた。かつては飛行場であった広大な土地の一部に、古い建物もそのままに、そこに家とアトリエを建てて、羊や鶏といっしょに暮らしている。家のなかを案内してくれ、アトリエで創作中の絵をみながら、時間をすごした。彼とはその後もたびたび会い、オランダとミラノへの個展の旅に連れていってくれたり、彼がL.A.に引っ越したあともあそびに訪れた。

ひとりは現代彫刻家のBjörn Dahlem。ベルリンとポツダムの狭間、ユングフェルン湖のほとりに立つ、一階が全面ガラス張りの家。生活の空間と、創作の空間がともにあり、湖まであるいてすぐ。リビングにはAndréの絵画が掛けられていて、本棚にはHaruki Murakamiが揃っていた。車で湖畔のレストランへ行き、古い教会を案内してくれて、こんなにもゆたかな時間があることにおどろいた。

Björnはその後、日本をおとずれてきて(何度目かの訪日)、吉井さんが理事長を務める山梨県北杜市清春芸術村にある、安藤忠雄建築の光の美術館で個展をした。そのときには僕もアテンドの手伝いをして、彼の展示についてのインタビューをおこなったりした。行き交いのなかで、おたがいの拠点にしている地域をおとずれあい、その土地のことを好きになる。

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これは特別な体験で、そう得られるものではない。あいだに紹介してくれるひとがいて、はじめて成り立つ。しかし、こうした特別な体験にこそ価値があり、人生観さえ変えてくれるような時間がある。観光がこのような特別なものとして、誰にとってもあることはできないか。

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だいじなのは関係性。だれが紹介してくれて、だれと出会っていくか。そこには顔の見える関係性がある。だれにとっても、だれでもいいわけじゃない。

地域の外から訪れる客が、その地域にいるひとに出会うことで、深まっていくものがある。おたがいにそうであれば、ギフトが循環する。いっぽうだけが得をするような関係は好ましくない。歓待される喜び、そして、歓待する喜び。それらがともにある関係性をさぐりたい。

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豊岡に来てから、外から訪れるひとを案内する機会がたくさんできた。友人も仕事も含めて、ざっと数えても50人以上。あなたを歓待する、という気持ちでいつもアテンドしている。

案内するときには、訪れてくるそのひとの志向に合わせて行程を組んで、施設を訪れたり市内のひとに会ってもらったりしていて、おおむね満足してもらえている実感はある。豊岡そのものや、豊岡に住むひとたちを好きになってもらって、帰っていく。

ただ、ふと立ち止まる。外から訪れるひとに会ってくれる、こちらのひとたちにとって、いつもいつもちがうひとを連れてこられることが負担になってはいないか。なぜなら時間をつかって話してくれてはいても、どこにも金銭や目に見える見返りは発生していないから。

豊岡を訪れてきてくれて、僕がていねいに歓待しようとしているひとたちはみんな、じぶんの世界をもっている素敵なひとたちで、会うことによっていい関係がうまれる=将来的な行き交いが生じることを思い描いている。思い描いているつもりではあるのだけれど、こちらのひとにとって、なにか深まっていくものを、仲介者としてちゃんと提示できているだろうか。

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これからも歓待する側として、あるいは歓待される側として、ゆたかに人生を歩んでいきたい。だからなおさら、「関係性の相互性」には繊細でいたい。答えはでないかもしれないけれど、問いを抱きつづけながら。

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