ルソー『告白』解説(2)
はじめに
新刊『NHK100分de名著 苫野一徳特別授業 ルソー「社会契約論」』出版記念として、自伝文学の傑作、ルソー『告白』解説第2弾をお届けします。(『エミール』や『人間不平等起源論』の解説もしています。)
苫野一徳オンラインゼミで、多くの哲学や教育学などの名著解説をしていますが、そこから抜粋したものです。
1.パリへ
1741年、ルソーはパリに到着します。
手に、自ら考案した新しい楽譜の書き方(音譜法)を携えて。
以前から、ルソーは従来の楽譜が読みにくいことに不満を覚えていました。そこで彼は、数字を使った新しい音譜法を発明したのです。
これをパリのアカデミーに提出すれば、時代の寵児になれるのではないか。
そう期待して、1742年、彼はアカデミーでその方法を発表するのですが……。
「アカデミーはまことに立派な讃辞をかきつらねた証明書をくれたが、アカデミーはわたしの方法を新しいとも、有用だとも思っていないということが見えすいていた。」
結局、彼のアイデアは無視されてしまうのでした。
悲嘆に暮れるルソーでしたが、めげずにオペラの作曲を始めます。
「恋のミューズたち」と題されたそのオペラは、その後、大きな成功を収めることになります。
2.テレーズ
その後、ルソーはヴェネツィアのフランス大使の秘書の職に就くことになりました。
しかしその大使が非常に横暴な人で、給与も払われなかったため、1年足らずでヴェネツィアを去ることに。
のちにルソーの妻となるテレーズと出会ったのは、ちょうどその頃のことでした。
テレーズは、ルソーが宿泊した宿の女中でした。
客たちからからかわれていたテレーズを助けたりしているうちに、2人の距離は近づいていくことになりました。
そうしてルソーは、「けっして彼女をすてないが、また結婚する気もない」という約束の元、テレーズと人生を共にすることを決めるのです。(かなり後になって、2人は正式に結婚します。)
この時のことについて、ルソーは次のように回想しています。
「つまり、ママンのかわりがほしかったのだ。だが、今はもうママンといっしょに暮らすわけにはいかぬ以上、ママンの手で教育されたこのわたしといっしょに暮らしてくれるひと、ママンがわたしのうちに見出したような、素朴で従順な心のもちぬしが必要だった。」
ずいぶんひどい物言いのように思いますが……。(後の方で、「自分はテレーズに恋をしたことはなかった」などとも言っています。)
テレーズは、文字もろくに読めない女性でした。ルソーは彼女を教育しようと試みますが、結局はあきらめてしまいます。
しかし、その後、ルソーを襲った不幸(逃亡生活)の中で、彼を最も助けてくれたのは、このテレーズだったのでした。
「だがこんなに無知な、あるいは、こんなに愚かな女も、いざというときにはすぐれた助言者となるのだ。スイス、イギリス、フランスなどで、わたしが災難にみまわれたとき、しばしば彼女は、わたし自身には見えないことを見ぬいて、最良の助言をあたえてくれたり、わたしが盲目的に落ちこみかかっている危険から救ってくれたりした。」
しかしルソーは、テレーズの母親や兄弟姉妹から、大変な目にあわされることになります。
彼らはルソーに寄生し、金をむしり取り、ルソーたちは困窮した生活を余儀なくされることになるのです。
ちなみに、この頃親交を深めるようになった、いわゆる「百科全書派」の思想家ディドロにも、ナネットという妻がいました。
ナネットについて、ルソーはこんなことを言っています。
「わたしにテレーズがあったように、彼にもナネットという女があった。これでわたしたちの共通点がまた一つふえたわけだが、ただつぎの点がちがっていた。つまりわたしのテレーズは、顔だちではナネットにおとらぬうえに、気質もおとなしく、まじめな男をひきつけるに十分な愛すべき性格をもっているのにたいし、ナネットのほうは怒りっぽく、下品で、他人の目に教育のわるさをおぎなうに足るものが、まったくみとめられないのだ。それでもディドロは、この女と結婚した。」
のちにディドロとは絶交することになるとは言え、まったく、ルソーは口が悪いと言うほかありません……。
ちなみに、ディドロと共に「百科全書」を編纂していたダランベールも、この頃、ルソーの友となります。ルソーは、彼らの求めに応じて「音楽」についての項を執筆しています。
しかしやはり最終的に、ルソーはダランベールとも決裂することになるのです。
ドイツ人の文芸評論家、グリムとも、この頃ルソーは親しくなっていますが、やはり最終的には敵対関係になることになります。
3.子を捨てる
ルソーが、実の子5人を全員孤児院に捨てることになった背景には、先述した義母たちの存在がありました。
貧しい上に、こんな親戚たちの手で育てられたら大変なことになる。
ルソーはそう考え、当時のパリではそう珍しいことではなかった捨て子の風習に従うことにしたのです。
テレーズは最後まで抵抗しました。しかし、
「彼女は泣く泣く従った。この宿命的な行為が、その後わたしの考え方や運命にどれほどのはげしい変化をもたらしたかは、おいおいわかるだろう。」
この決断を、ルソーはその後、ひどく後悔することになるのです。
4.華々しいデビュー
1749年、ルソーの人生が一変する出来事が起こります。
ディジョンのアカデミーが募集していた、懸賞論文に応募することにしたのです。
翌年、彼の論文が当選したという知らせが届きます。
のちに『学問芸術論』として出版されることになる論文です。
アカデミーの問いは、「学問・芸術の進歩は、風俗を堕落させたか、それとも純化させたか」というものでした。
ルソーはこの問いに「ノン」と答えます。
時はフランス絶対王政の時代。一部の貴族たちに独占された学問や芸術など、結局は美徳の堕落に寄与しているにすぎない。ルソーはそう主張して、当時の人びとに衝撃を与えたのです。
ちなみに、ここでルソーが自身の思考・執筆スタイルについて書いているので、引用しておきたいと思います。
「これはわたしの記憶力の特異な一面を示しているから、ふれておく必要がある。すなわち、記憶力が役にたつのは、それをたよりとしている間だけにすぎず、いったん紙に書きつけてしまうと、記憶力はなくなる。あることを一度書いてしまうと、もうぜんぜん思い出せなくなるのである。」
ルソーと比べるのはおこがましいですが、じつはこれは私も同じで、かつて『問い続ける教師』という本にも書いたことがありました。
10代の頃、ルソーの『告白』を読んで、この偉大な思想家との共通点を見つけて嬉しくなった思い出があります。
ともあれ、ルソーはこうして、パリ随一の思想家として有名になっていくのです。
もっとも、生活は貧しいままで、楽譜を書き写す写譜の仕事をして糊口をしのいでいました。
5.オペラの成功と、友人たちとの不和
その後、ルソーはオペラ「村の占者」でも成功します。
その時の喜びは、相当のものだったようです。特に、多くの美しい女性たちを感動させられた喜びは……。
「こんなにも多くの愛らしい女性を感動させた喜びで、わたし自身、感涙にむせんだ。そして最初の二重唱のところで、泣いているのはわたしだけでないことに気づくと、もう涙をおさえることができなくなった。」
こんなことも続けています。本当にあけすけな「告白」です。
「とはいえ、このときのよろこびには、作者としての虚栄心よりも、性の陶酔のほうが大いにあずかっていたのは確かだ。事実、もしそこにいたのが男ばかりだったら、自分の流させたあのこころよい涙を、この唇でうけたいという欲望に、あれほどさいなまれはしなかったろう。」
有名になったルソーに、フランス国王は年金を支給しようと申し出てきました。
ところがルソーは、特に尿閉症のため、王に拝謁することが不安で、その申し出を拒否してしまうのです。
「この持病こそ、わたしを社交界から遠ざけ、また婦人がたの部屋に通わせない主な原因だったのである。この病気のために自分がおちいる状態を考えただけで、尿意をもよおして苦しくなる。」
この拒否を、友人のディドロは激しく非難しました。そしてこの時以来、二人の関係は悪化していくことになるのです。
ルソーは言います。オペラの成功以来、ディドロやグリムが、どんどんと自分に冷たくなっていった、そしてそれは、明らかに嫉妬のためだった、と。
「わたしが思うのに、書物を出す、すぐれた書物を出すということならば、いわゆるわが友たちも大目にみてくれただろう。そのような名声なら、彼らにも無縁ではないからだ。しかしオペラを作曲したということ、しかもそれがはなばなしい成功をおさめたということ、これにはがまんできなかったのだ。というのは、彼らのうちだれひとり、そんなまねのできるものはなく、その名誉を望む資格もなかったからである。」
6.ジュネーヴで再び改宗
その後、ルソーはテレーズと共に生まれ故郷のジュネーヴへ旅をします。
彼はここで、カトリックから再びプロテスタントへ戻る決心をします。
「祖先とは異なった宗教を奉じているために、この国の公民権を得られないのが恥ずかしくなって、公然と祖先の宗教にもどろうと決心した。」
7.ドゥドト夫人への恋
1757年、45歳のルソーは、世界的なベストセラーとなる恋愛小説『新エロイーズ』を執筆のさなか、まるでこの小説を現実の世界で味わうかのように、ドゥドト夫人に恋をします。
ドゥドト夫人は、当時30歳。決して美人ではないが、「それでいてどことなく若やいでおり、表情はいきいきとしてしかもやさしく、愛くるしいのである」。とルソーは書いています。
彼女は、若くして好きでもないドゥドト伯爵と結婚させられていましたが、すでにサン=ランベールという愛人がいました。
サン=ランベールとはルソーも親しくしており、彼の片思いは、結局実ることがありませんでした。
ルソーは言います。
「以上が、地上でわたしに当てがわれていた最後の美しい日々であった。これからわが生涯の、ほとんど切れ目のない長い不幸の連鎖がはじまる。」
8.逮捕状
この中でも、特に『エミール』の中の「サヴォワ助任司祭の信仰告白」は、反カトリック教会的であるとして断罪されることになります。
そして、パリ高等法院はこれを焚書にするとともに、ルソーには逮捕状が出されることになってしまうのです。
ジュネーヴに逃れようとしたルソーでしたが、すぐさまジュネーヴでも逮捕状が出されてしまいます。
「この二つの逮捕状は、未曽有のはげしさをもって全ヨーロッパにわたってまきおこった、わたしにたいする呪いの叫びの合図となった。ありとあらゆる新聞、雑誌、パンフレットが世にもおそろしげな警鐘を鳴りひびかせた!」
ルソーはプロイセン領モチエ村に逃れます。プロイセンのフリードリヒ大王が、ルソーを保護してくれることになったのです。
しかし、牧師や民衆たちは、ルソーの滞在に黙っていませんでした。
中でも、モンモランという牧師は、民衆を焚きつけてルソーを迫害します。
「わたしは、説教壇から非難され、キリストの敵とよばれ、田舎では化けものあつかいで追いまわされた。わたしのアルメニアふうの衣服は、下層民には目じるしの役をはたすのでぐあいが悪いことを痛感したが、この情勢でぬぐのは卑怯と思われた。わたしは決心がつかず、長上衣と毛皮裏のボンネットをつけて、賎民どもから嘲弄の声をあびせられ、ときには彼らから小石を投げられながら、平気であたりを散歩した。家の前を通るとき、何回も家の人の声を耳にした。「鉄砲をもってこい、あいつを射ってやる」それでもわたしは足をはやめはしなかったが、これがまた彼らの怒りに火をつけた。」
ある日、彼の住まいが襲撃を受けます。
命の危険を感じたルソーは、ついにモチエ村を逃れることを決意します。
行き着いたのは、サン=ピエール島。
その自然を気に入っていたルソーでしたが、しかしここでも、彼は追い出されてしまうことになります。
「24時間以内にサン=ピエール島および共和国の全直轄領・属領から退去し、以後ふたたび立ちもどらないよう、従わなければ極刑に処する、という明白かつ峻厳きわまりない命令であった。 」
『告白』はここで終わります。
その後、ルソーはイギリスへ渡り、同じくヨーロッパの有名哲学者であったデイヴィッド・ヒュームに匿われることになります。
ところがこのヒュームとも、すでに被害妄想に取り憑かれていたルソーは決裂。やがてパリに戻ります。
逮捕状はまだ有効でしたが、警察は見て見ぬ振りをしていたと言います。
1778年、パリ郊外の町で、ルソーは66年の生涯を閉じることになりました。
晩年の生活や思想については、『孤独な散歩者の夢想』に詳しく書かれています。
また次の機会に、こちらの本もご紹介することにしたいと思います。
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