見出し画像

ルソー『人間不平等起源論』解説(1)

はじめに

 新刊『NHK100分de名著 苫野一徳特別授業 ルソー「社会契約論」』出版記念として、ルソー『人間不平等起源論』の解説をお届けします。

 前回の『エミール』の解説に続く、ルソー解説シリーズ第2弾です。

 苫野一徳オンラインゼミで、多くの哲学や教育学などの名著解説をしていますが、そこから抜粋したものです。

画像1

 『人間不平等起源論』は、『社会契約論』に先駆けること7年、1755年に刊行された作品です。

 タイトルの通り、この社会における人間の不平等が、いかにして起こったかを仮説的に考察したものです。

 ルソーの答えは簡明です。

「ある広さの土地に囲いを作って、これはわたしのものだと宣言することを思いつき、それを信じてしまうほど素朴な人々をみいだした最初の人こそ、市民社会を創設した人なのである。」

 ここで「市民社会」と言われているのは、今日の一般的な用語とは違って「支配社会」のことと考えていいでしょう。

 このような支配者が生まれた背景には、冶金術と農業、つまり農耕があったとルソーは言います。

 農耕が、それまで共有されていた土地の私有化を生み出したのです。

 本来であれば、そうした土地私有者は、その他の人びとから責められてしかるべきです。みんなで共有すべき土地を、「ここは俺のものだ」などと突然主張し始めたのですから。

 しかし彼らは、ここで恐ろしい奸計を思いつきました。そうルソーは言います。

「よその土地の奴らが、俺たちの土地を奪いにくるぞ! さあ、このわたしに至高の権力を与えよ。そうすればお前たちを守ってやる」

 ルソーは言います。こうして、

「すべての人は、自分の自由を確保するつもりで、自分を縛る鎖に飛びついたのである」

 と。

 当時の過酷な支配–被支配社会の起源を、ルソーはこのような形で仮説的に描いてみせたのです。

 しかしその7年後、ルソーは、まるでこの本の成果を自ら無視するかのような一節から『社会契約論』を書き起こしています。

 人間は自由なものとして生まれた、しかもいたるところで鎖につながれている。〔略〕どうしてこの変化が生じたのか? わたしは知らない。

 ——わたしは知らない?

 『人間不平等起源論』は、まさにこの問いをこそ明らかにした作品だったのではなかったでしょうか?

 じつはこの部分にこそ、わたしの考えでは、『社会契約論』におけるルソーの哲学的方法の洗練が見て取れるのですが……そのことについては、拙著『NHK100分de名著ルソー「社会契約論」』をぜひご参照いただければ嬉しく思います。

 『人間不平等起源論』は、『社会契約論』に比べればまだまだ思索が底まで落ち切っていない過渡的な著作であるようにわたしには思われます。

 しかしそれでもなお、この本には、のちの『社会契約論』につながる優れた洞察がふんだんに散りばめられています。

【序】 

1.人間を知れ

 本書冒頭で、ルソーは言います。

 人間の不平等の起源を知るためには、まず人間それ自体を知らなければならない、と。

 ところが人間本性をめぐっては、ほとんど「スキャンダル」と言っていいほどに、哲学者たちの間でも見解の一致が見られません。

 だから「自然法」とは何かをめぐっても、やはり多くの説が並び立ってしまいます。(「自然法」とは、人間が野生時代において無自覚的に有していたルール、あるいはほとんど自然法則のようなものと考えてよいでしょう。)

 というのも、多くの論者は、「自然法」を結局のところ自分たちの社会の延長線上で考えてしまっているからです。

 つまり私たちは、本来の「自然」の中に、無意識的に今日の「社会」の観点を持ち込んでしまっているのだ、と。

2.自己保存と憐れみの情

 そこでルソーは、まずは虚心坦懐に「自然」を考察しようと言います。

 その結果、彼が見出したのは、野生人が理性の目覚め以前に持っていたに違いない次の2つの原理です。

 1つは「自己保存」の欲求

 これは説明するまでもないでしょう。

 もう1つは「憐れみ」の情(ピティエ)です。

 ルソーは、あらゆる「自然法」はこの2つの原理から全て導き出されると主張します。

 もっとも、ルソー自身が認めるように、これは「仮説」でしかありません

 ただ、ルソーが本当に考えたかったのは、太古の野性人がどんな存在だったかという仮説的な「事実」ではなく、人間は一体どのような存在なのかという、その「本質」を明らかにすることでした。

 次の一節は、そのようなルソーの自覚的な哲学的方法を物語るものです。

「だからすべての事実から離れることから始めよう。事実では問題の核心にふれることはできないからだ。この主題について研究できるのは歴史的な真理ではない。仮定と条件に基づいて推理できるだけである。真の起源を明らかにするのではなく、事態の本性を解明することがふさわしいのである。」

 事実ではなく、人間存在の本質を解明すること。このような哲学的方法は、『社会契約論』においてさらに洗練されることになるのです。

【第1部】

3.ホッブズ批判

 本書第1部では、いわゆる「自然状態」についての考察が展開されます。

 それは、文明が始まる前の、太古の野生人たちの生活のこと。

 この「自然状態」を見極めることで、人間の本性を改めてえぐり出そうとルソーは考えたのです。

 その際、ルソーはまず、「自然状態」について考察した先輩哲学者ホッブズ(1588〜1679)を批判します。

 知られているように、ホッブズは、自然状態において人間は「万人の万人に対する戦争状態」にあったと言いました。

 しかしルソーは、それは誤りであると言うのです。

 ルソーによれば、むしろ人間は、みんな互いにバラバラに暮らしていたのであり、相互にほとんど不干渉な存在でした。したがって、

「世界において野生人が知っている唯一の幸福は、食物と異性と休息にかかわるものである。野生人が恐れる不幸は、苦痛と飢えだけである。」

 ルソーに言わせれば、ホッブズは、戦争が絶えない今日の社会を野生時代に持ち込んだことで、本来の自然状態を見誤ってしまったのです。

 しかしこのホッブズ批判自体は、わたしの考えではそれほど本質的なものではありません。

 両者の「自然状態」の違いは、次のように考えればむしろ互いに補い合う理論になります。

 ホッブズのいう「自然状態」は、約1万年前の定住・農耕・蓄財から始まった、大規模な戦争状態のこと。

 対して、ルソーのいう「自然状態」は、それより数十万年前の現生人類の誕生の頃から、約1万年前までの狩猟採集時代までのこと、と。

 何をもって「自然状態」と呼ぶかは、ある意味で恣意的な区分です。

 ルソーにとって、それははるか太古の人類やその祖先の時代のことであり、ホッブズにとっては、文明のあけぼのの時代のことであったと考えると、両者の理論は、相反するものというより、連続的なものと考えることができるでしょう。

4.最初の言語

 今日の社会は「言語」を介して営まれています。

 しかし最初の言語はいったいどのように始まったのでしょうか。

 これがルソーの次の問いです。

 一般に、言語は家族の間で生まれたとされています。

 しかしルソーはその説を否定します。

 ルソーによれば、人類は家族で暮らしていたのではなく、バラバラに暮らしていたからです。(もっとも、現代ではこのルソーの見解はおそらく退けられるものと思われます。)

 ルソーによれば、最初の言語は「自然の叫び」です。痛みや苦しみ、あるいは危険に際しての「叫び」が、最初の言語だったに違いないと言うのです。

 ところが、そうした人類の中に、洪水などのため、一部の限られた場所で共に生活しなければならなくなる人びとが現れたに違いないとルソーは言います。

 そうすると、共存のためにどうしても共通言語を発明するほかありません。

 そこで人びとは、まずは「身振り」で、続いてそこに音の分節を乗せて、「言葉」を生み出していったのではないか。さらにその言葉に「合意」が与えられ、言語コミュニケーションが成熟していったのではないか。そうルソーは言うのです。

 ちなみに、言語の起源について、ルソーは後に『言語起源論』も発表しています。機会があれば、改めて紹介したいと思います。

5.憐れみの情

 続いてルソーは、先述した「憐れみの情」について論じます。

 ホッブズは、人間は自然状態において互いに残虐であると考えましたが、ルソーは、ホッブズの知らなかった原理としてこの「憐れみの情」を挙げるのです。

 それはあまりに自然な感情であるため、動物にさえ見られるほどだとルソーは言います。

「これはきわめて自然な徳であるために、ときには動物すらこの徳をもっていることをはっきりと示すほどである。母親が自分の子供にたいして抱く感情も、子供を危険から保護するためにあえて危険を冒そうとすることも、この徳のあらわれであるだけではない。馬たちが生き物を脚で踏むことを嫌うことは、日々気づかれていることである。」

 そして言います。人は本来的に、他者が苦しむのを見たくはないものなのだ、と。

「実際に寛容とは、慈悲とは、人間愛とは何だろうか──それが弱者や罪人や人類一般を対象とした憐れみの情でないとしたならば。善意や友情すら、よく考えてみれば、憐れみの情が特定の対象に、長いあいだ注がれるうちに生まれたものなのである。というのも、誰かが苦しまないことを望むということは、その人が幸福であることを望むことにほかならないではないか。」


6.野生人

 とは言っても、野生時代において、人はやはり、他者とほとんど関わることのない、自分だけで満ち足りた存在でした。

 したがって、教育もなければ進歩もありません。

 自然状態においては、弱肉強食が一般的であるなどとも言われますが、ルソーはそれも批判します。

 野生人はお互いに関わり合わないので、そもそも支配ー従属関係など起こり得ないからです。

 もし何か諍いがあっても、その場を離れればいいだけです。

「野生人は、隷属とか支配とか言われても、何のことか理解することもできないだろう。ある人が集めた果実を、その人が殺した獲物を、その人が隠れ家として使っていた洞窟を、別の人が奪うことはできるだろう。しかしどうすれば、他人を服従させることができるだろうか。所有するものが何もない人々のあいだで、他人を自分に依存させる〈鎖〉をどのようにして作りだすことができるのだろうか。
 誰かが、わたしをそれまで暮らしていた樹木から追い払うとしたら、わたしはその樹木から降りて、別の樹木に移るだけだ。ある場所で誰かがわたしを苦しめるとしても、その人はわたしが別の場所に移るのを妨げることはできないだろう。」

 以上で第1部は終わります。

 続く第2部では、いよいよ、本丸である人間の不平等の起源が(仮説的に)解き明かされることになります。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?