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ルソー『エミール』解説(1)

新刊『NHK100分de名著 苫野一徳特別授業 ルソー「社会契約論」』が出版されました。

 近代民主主義の源流を築いた、歴史を動かした名著中の名著。

 しかしその独特の難解さのゆえに、多くの人の理解を拒んできたこの名著の解説を、中高生への講義を元に書籍化したものです。

 きっと中高生でも理解できるくらいの、平易な内容になっていると思います。

 今回は、本書の出版を記念して、『社会契約論』と同年(1762年)に刊行された教育名著『エミール』の解説第1弾をお届けしたいと思います。

苫野一徳オンラインゼミで、多くの哲学や教育学などの名著解説をしていますが、そこから抜粋したものです。

 いま読んでも、どこまでも新しい。教育関係者なら、一度は通読したい名著です。

はじめに

 今なおまったく色褪せることのない、不朽の教育名著。

 どこを切っても、名言だらけ。

 にもかかわらず、なぜか多くの読者が、どうしても最後まで読み終えることができないという不思議な本でもあります(笑)

 その1つの理由は、小見出しなどのないまま、ただひたすら文章が続くので、名言のオンパレードがかえって平板な印象を与えてしまうところにあるのかもしれません。

 というわけで、本解説では、勝手に小見出しをつけながら本書を解説していきたいと思います。

 生涯で1度は読みたい名著。

 毎晩10分ずつだけでも読んで、数ヶ月かけて通読してみるのも楽しいのではないかと思います。

 それはきっと、最高の数ヶ月、至高の読書体験になるに違いありません。


【序】 

0.子どもを知れ

 まずは、序文から。

 ルソーは「子どもの発見者」だとよく言われます。

 フィリップ・アリエスという歴史家が『〈子供〉の誕生』という本で述べていることですが、かつて、中世ヨーロッパには「子ども時代」という概念がありませんでした。

 子どもといえども、当時は家計を支える働き手ですから、一般には「小さな大人」と考えられていたというのです。

 それはたとえば、子ども服などは当時なく、大人の服のミニチュアでしかなかったといったことからも伺えます。

 飲酒も普通にあったようですが、さすがに近代になると、17世紀の哲学者、ジョン・ロックの『教育に関する省察』などに、「子どもにあまりワインを飲ませるな」なんていう記述が見られるようになります。

 もっとも、じつはこのアリエスの主張は、今日、かなり疑わしいとされています。いくらなんでも、「子ども時代」という概念がなかったのは言いすぎだろう、と。

 ただ、今のようには「子ども」が「子ども」として考えられていなかったのは確かなようです。

 そんなヨーロッパにあって、ルソーは「子ども」を発見しました。

 子どもには子ども特有の感じ方、考え方、成長の仕方があるのであって、教育はそれを十分に理解し、意識しなければならない。大人の一方的な都合で教育をしてはならないのだ。

 そうルソーは言ったのです。

人は子どもというものを知らない。子どもについてまちがった観念をもっているので、議論を進めれば進めるほど迷路にはいりこむ。このうえなく賢明な人々でさえ、大人が知らなければならないことに熱中して、子どもにはなにが学べるかを考えない。かれらは子どものうちに大人をもとめ、大人になるまえに子どもがどういうものであるかを考えない。

【第1編】

1.自然に従え

  第1編は、次のような有名な言葉から始まります。

万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる。

 教育も同じで、人間が余計なことをするから、子どもたちが目いっぱい成長することができなくなってしまっている。

 そうルソーは主張します。

 だからと言って、人間の教育が必要でないわけではもちろんありません。

わたしたちは弱い者として生まれる。わたしたちには力が必要だ。わたしたちはなにももたずに生まれる。わたしたちには助けが必要だ。わたしたちは分別をもたずに生まれる。わたしたちには判断力が必要だ。生まれたときにわたしたちがもってなかったもので、大人になって必要となるものは、すべて教育によってあたえられる。

 ではどうすればいいのか。

 教育には、次の3つの種類があるとルソーは言います。

「自然の教育」
「事物の教育」
「人間の教育」

 ここでいう「自然」とは、いわば人間本性のことです。

 たとえば、わたしたちは言葉もしゃべれず歩くこともできない状態で生まれてきます。それが「自然」なことです。

 そんな赤ちゃんに、いきなり歩くための教育をしても意味のないことでしょう。それはむしろ、赤ちゃんを苦しめるだけです。

 だからわたしたちは、この「自然の教育」に「人間の教育」を合わせるほかありません。

 ちなみに「事物」とは、昆虫、水、火、社会制度など、わたしたちを取り巻くさまざまな事物のことです。

 これらも、わたしたちにはどうしようもないことがほとんどですから、ルソーは「事物の教育はある点においてだけわたしたちの自由になる」と言います(むろん、ルソーは「社会制度」については人間の力でよりよいものにしなければならないと考えています。先述したように、『社会契約論』は『エミール』と同じ1762年に出版されました)。

 要するにルソーは、できるだけ人間本性に従った教育をせよと言うのです。これを無視すれば、子どもたちの健全な成長を歪めてしまうことになるのだと。

 ちなみに、ルソーはよく「自然に帰れ」と言ったと言われますが、ルソー自身はこの言葉をどこにも書いていません。

 19世紀の歴史家ミシュレが、その名著『フランス革命史』の中で、ルソーの思想の本質を「自然に帰れ」と表現しているので、そこから広まった言葉なのではないかと思います。

2.人は自然において平等

 ルソーが「自然」という言葉に込めるもう一つの意味は、「人間は平等であることが自然である」ということです。

自然の秩序のもとでは、人間はみな平等であって、その共通の天職は人間であることだ。

 当時、教育といえば、僧侶になるための教育、貴族になるための教育、職人になるための教育、などが主でした。

 しかしルソーは、教育は本来そのようなものではないのだと主張します。「人間」として生きられるようになること、それが教育の目的なのです。

生きること、それがわたしの生徒に教えたいと思っている職業だ。

 では「生きること」とは何なのでしょう。

生きること、それは呼吸することではない。活動することだ。わたしたちの器官、感官、能力を、わたしたちに存在感をあたえる体のあらゆる部分をもちいることだ。もっとも長生きした人とは、もっとも多くの歳月を生きた人ではなく、もっともよく人生を体験した人だ。

自らの人生を、より豊かに、より自由に生きられること。それが人間として「生きること」なのです。

3.身体について

 徐々に、ルソーは具体的な教育論を展開していきます。

 まず、彼は次のように言います。

子どもの手足を動けないようにしばりつけておくことは、血液や体液の循環を悪くし、子どもが強くなり大きくなるのをさまたげ、体質をそこなうだけのことだ。こういうむちゃな用心をしないところでは、人間はみな大きく強く、均整のとれた体をしている。

 当時、赤ん坊は手足が自由にならないよう布でくるまれていました。

 その方が親が働きやすいからであったり、乳母が面倒を見やすいからであったりしたからですが、ルソーはこの慣習を厳しく批判します。

こういう残酷な拘束が気質や体質に影響せずにすむだろうか。子どもたちが感じる最初の感情は苦痛の感情である。

 これぞまさに、自然に反した教育(養育)。ルソーはそう訴えます。

 だからと言って、ルソーは子どもを甘やかせと言うわけではありません。むしろ逆です。

 過保護な母親に対して、ルソーは言います。

そういう女性は子どもをだいじにしすぎて、弱さを感じさせないようにするためにますます弱くする。そして、子どもを自然の法則からまぬがれさせようとして、苦しいことを子どもから遠ざけ、すこしばかりの苦しみから一時まもってやることによって将来どれほどの事故と危険を子どもにもたらすことになるか、弱い子ども時代をいつまでもつづけさせて大人になったときに苦労させるのは、どんなに残酷な心づかいであるかを考えないのだ。

 ルソーはまたしても「自然」を持ち出して次のように言います。

自然を観察するがいい。そして自然が示してくれる道を行くがいい。自然はたえず子どもに試練をあたえる。あらゆる試練によって子どもの体質をきたえる。苦痛とはどういうものかをはやくから子どもに教える。歯が生えるときは熱をだす。はげしい腹痛がけいれんを起こさせる。

 このように、多くの親は、自然に逆らうことで子どもたちを自ら悪くしてしまっているのに、それを子どものせいにすると言ってルソーは怒ります。

 親たちは、「骨を折って子どもを悪くしておきながら、子どもが悪いといって嘆く」のだ、と。

4.教師について

 ここから、ルソーは理想の教育について語り始めます。

 そのためには、まずは子どもをどんな教師につけるべきか考えなければなりません。

 ルソーは言います。

わたしがもとめる第一の資格、この一つの資格はほかにもたくさんの資格を必要としているのだが、それは金で買えない人間であることだ。金のためにということではできない職業、金のためにやるのではそれにふさわしい人間でなくなるような高尚な職業がある。

 ちなみに、ここでいう教師とは学校の先生のことではありません(当時は公教育というものがまだ存在していません)。

 理想の教育をなしうる、いわば子どもと運命を共にするような存在のことです。

 とはいっても、そのような教育はまだ実在していないわけですから、ルソーはここに、エミールという架空の少年を描き出すことにします。

 そしてルソー自身が教師となって、エミールを教育していくと言うのです。

 もっとも、自分は本当は教師に向いていないのだが、でもとりあえずは、教師に必要な資質は全部備えていると仮定しておこう、とルソーは言います(笑)

 まず、彼は次のように言います。

一般の意見に反して、子どもの教師は若くなければならない、賢明な人であれば、できるだけ若いほうがいい、ということだ。できれば教師自身が子どもであれば、生徒の友だちになって一緒に遊びながら信頼をうることができれば、と思う。子どもと成熟した人間とのあいだにはあまり共通なものがないし、そんなに年齢の差があっては十分に固い結びつきはけっしてできあがらない。

 というわけで、本書執筆時のルソーはすでに40代後半〜50歳ではありましたが、ここではひとまず、若者ルソーが想定されているようです。

5.エミール

 では、エミールはどんな子どもか。

 それはごく普通の子どもだとルソーは言います。

 また、金持ちではあるけれど、みなしごという設定です(その理由はいまいちよく分かりません。生活に困らず、また実の親にいちいち口出しされないことで、教育だけに専念できる設定ということでしょうか、笑)。

 青年時代まで長生きしてもらわなければならないので(そうしないと教育論にならないので?)、健康な少年でもあります。

 ちなみに、肉体の健康について、ルソーは次のように言っています。

肉体は弱ければ弱いほど命令する。強ければ強いほど服従する。あらゆる官能の情欲は弱い肉体のなかに宿る。弱い肉体は情欲を十分に満足させることができないのでますますいらだってくる。

 健康的であるためにも、ルソーはエミールを田舎で教育すると言います。

とくに人生の最初の時期において、空気は子どもの体質に影響をおよぼす。体じゅうの気孔から空気は繊細で柔らかな皮膚にしみこみ、生まれたばかりの体に強い影響をあたえ、将来も消えることのない刻印を残す。だからわたしは、農村の女を都会に連れてきて、家にとじこめ、そこで子どもを養育させることには反対だ。乳母が都市の悪い空気を吸うよりも子どもが田舎に行ってよい空気を吸うほうがいい。

6.乳児期

 教育は、生まれた時から始まっている。そうルソーは言います。その時から、親や教師は、自然に従って余計なことはしないという意識が必要なのだ、と。

教育は生命とともにはじまるのだから、生まれたとき、子どもはすでに弟子なのだ。教師の弟子ではない。自然の弟子だ。教師はただ、自然という首席の先生のもとで研究し、この先生の仕事がじゃまされないようにするだけだ。

 まず、産湯についてルソーは次のように主張します。

生まれるとすぐに子どもを温かい湯で洗うが、そのばあい、ふつう、湯にぶどう酒を混ぜる。このぶどう酒をくわえることはほとんど必要ないことだと思う。自然は醱酵したものをなに一つ産出しないのだから、人工的な液体をもちいることが、自然によってつくられた者の生命に必要だとは考えられない。
同じ理由から、水を温めるという心づかいも、かならずそうしなければならないことではない。じっさい、多くの民族は生まれたばかりの子どもをなんのおかまいもなしに川や海で洗っている。

 大きくなるにしたがって、熱い湯にも冷たい水にも耐えられるよう鍛えるべきだとも言います。

 また、体の自由を奪う産着は着させるなと、ルソーは何度も繰り返します。

7.幼児期

 幼児期において教えるべき重要なことは、「どんな習慣にもなじまない」ことだとルソーは言います。

一方の手ばかり出させるようにしてはいけない。一方の手ばかりつかわせてはいけない。同じ時刻に食べたり、眠ったり、行動したりしたくなるようにしてはならない。昼も夜もひとりでいられないようにしてはならない。体に自然の習性をたもたせることによって、いつでも自分で自分を支配するように、ひとたび意志をもつにいたったなら、なにごとも自分の意志でするようにしてやることによって、はやくから自由の時代と力の使用を準備させることだ。

 なかなか面白い主張です。

 ほかにも、子どもは初めは雷を怖がらないが、その恐怖を教えられることで怖がるようになる、といったことをルソーは言います。

 虫や醜い動物を怖がるのも同様だ、と。

 だから、早いうちからこれらに慣れさせておくといいとルソーは言います。

どんなに恐ろしいものだろうと、それを毎日のように見ている者には恐ろしくなくなる。

8.言葉以前の教育

 子どもは、言葉を覚える前は泣くことで自分を表現します。

 この泣き声を止めさせようと、大人はあやしたりするわけですが、それでも泣き止まないと、叩いて言うことを聞かせようとする。

 ルソーは言います。

人生へのかどでにさいして、なんという奇妙な教訓。

 そうやって殴られた子を見た時のことを、ルソーは次のように言っています。

かわいそうにその子は、怒りに喉をつまらせていたのだ。息もできないくらいになっていたのだ。見ていると、顔は紫色に変わった。一瞬間ののち、はげしい叫び声をあげた。その年ごろの子どもが感じることのできる恨み、怒り、絶望のあらゆるしるしが、その声にふくまれていた。

 泣くことには理由がある。それを理解しようとせずに、無理やり泣き止ませるなんていう理不尽を教えてはならない。ルソーはそう言うのです。

 このように「弱い」人間にされてしまった子どもは、そこから「悪」へと向かってしまうからです。

 以下の言葉には、ルソーの洞察が光ります。

悪はすべて弱さから生まれる。子どもが悪くなるのは、その子が弱いからにほかならない。強くすれば善良になる。なんでもできる者はけっして悪いことをしない。

 同じように、子どもは手当たり次第に物を壊すことがありますが、それも無理やりやめさせてはならないとルソーは言います。

 たとえ破壊的になったとしても、自然は、彼らの力をそれほど有害なものにはならないよう作っている。

 だから、その活動力を抑えつけるのではなく、ただ、壊れたら困る物は子どもの手の届かないところに置いておけばいいだけなのだ、と。

 こうしてルソーは、子どもがやがて自由になれる(自己コントロールできる)ための4つの格率を挙げます。

①子どもの力を存分に発揮させよ
②欠けているものを補ってやれ
③気まぐれには従うな
④成長にとって自然なものとそうでないものを見極めよ

 ここからも分かるように、ルソーは子どもを放任しておけばよいなどと言っているわけではありません。

 大事なことは、上の4つの原則にしたがって、よく観察し、見守る時と適切な援助をしてやる時を見極めることなのです。

 これらのうちの④が、今後は特に重要になってきます。

 成長にとって不自然なことはしてはならない。ルソーはそう言うのです。

 その1つの象徴的な例として、第1編の最後の印象的な言葉を引用しておきましょう。

 子どもの言葉の細かな間違いを、いちいちしつこく直すなとルソーは言います。それは言葉を発することを嫌いにさせるだけである、と。

細かいまちがいをすべて、いちいちしつこく子どもになおしてやろうとするのは、やりきれない 衒学趣味であり、まったくよけいなお世話でもある。そういうことは、時がたつにつれて子どもがかならず自分でなおすようになる。子どものまえではいつも正確に話すがいい。だれよりもあなたがたと一緒にいるのが子どもには楽しいということになるようにするがいい。そうすれば、子どものことばはあなたがたのことばを手本にして、知らず知らずのうちに正しくなるのだから、あなたがたはなにも注意してやる必要はない。

 言葉が遅い子に対しても同様です。余計な不安にとらわれず、待ちなさい。そうルソーは言うのです。

人々はそのおくれに気がつくと、不安を感じ、はやくから話しはじめた子どものばあいよりもいっそうやっきになって話をさせようとする。ところがこのまちがったせっかちなやりかたは、子どもの話をあいまいにする大きな原因となるのであって、そんなに急ぎさえしなければ、子どもは十分ひまをかけて、もっと完全な話しかたができるようになるのだ。

 以上で第1編は終わります。

 続く第2編では、言葉を覚えてからの子どもの教育について論じられることになります。第2編こそ、本書の白眉であると言えるでしょう。

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