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【解説】竹田青嗣『欲望論』(12)〜時間とは何か?

1.本質観取

 これまで私たちは、意味や価値の本質、すなわち、「〜とは何か」という問いに対する答えの出し方を明らかにしてきた。

 それは、「これこそが真理である」とする形而上学的独断論によってはむろん解明することのできないものである。

 かと言って、「本質などどこにもない」などと、相対化し続ける必要もない。

 なぜなら私たちは、自らの「現前意識」(その最も源泉となるものは、前回見た、個的直観・本質直観・情動所与である)において、さまざまな「確信」を成立させているからだ。

 たとえば、「美」とは何か?

 絶対の「美」の本質を明らかにすることはできない。かと言って、私たちは、「美」など一切ありえないなどと言うわけにもいかない。

 なぜなら私たちは、「ああこれは美しい」と、疑いの余地なく「感じてしまう」ことがあるからだ。

 その「現前意識」を、私たちは疑うことができない。

 ならば私たちは、いったいどのような本質的な条件においてそれを「美」と「確信」するのか?

 その「確信成立の条件」を解明することが、現象学的「本質観取」の要諦なのである。

 そしてこの個人的な「確信」は、たえず他者の「確信」との対話へともたらされなければならない。

 他者もまた、同じような本質条件において「美」を「美」と確信しているのだろうか。その「共同確信」が成立して初めて、私たちはそれを「美」の共通了解可能な本質として提示することができるのである。

2.時間とは何か?

 以下で竹田は、さまざまなテーマについての本質観取を繰り広げていく。そのことを通して、現象学ー欲望論の哲学が切り開いた可能性を証示していくわけだ。

 最初に取り上げるのは、「時間」とは何か?

 最初のテーマとしては難しすぎるようにも思われるが、フッサールの『内的時間意識の現象学』の不備を補いつつ、竹田は時間の本質観取を遂行していく。

 言うまでもないが、本質観取は、「時間」を客観的に実在するものと仮定して、その正体を明らかにしようとするわけではない。それは「時間」の「本体論」である。

 そうではなく、私たちは、なぜ、またどのように、「時間」の存在を「確信」するのか、その「確信成立の本質条件」を解明していくのである。

 そこでまず、竹田はこれまでの時間のパラドクス論の数々を批判する。

 たとえば、「飛んでいる矢は止まっている」というゼノンのパラドクス(その瞬間だけを切り取れば矢は止まっている)や、絶対的な「今」など存在し得ないといった、デリダの議論など。

 しかしこれらは、いずれも「時間」を「本体化」し、その仮定の上に立って、時間のパラドクスを指摘しているにすぎないのだ。それはいわば、ほとんどストローマン(藁人形)論法である。

 エレアのゼノンから、現象学の「現前」概念への批判を行なったデリダにいたるまで、時間の「パラドクス」を構成する議論は、必ず、時間の「現在」「過去」「未来」という存在形式を問題にする。そして時間がパラドクスとして構成されるのは、ベルクソンが適切に指摘したように、時間を空間的に表象化し、この一般表象(一般時間表象)において操作することによってである。

 前に見たように、デリダは絶対的な「今」などないと強弁したが、これは時間を空間的に表象した上で、そのような表象が成立しないことを帰謬論を用いて述べ立てたにすぎない。

 しかし、時間の空間的(客観的)表象という出発点自体が、そもそも間違っているのだ。それは時間の「本体」を想定するものである。

 上に述べた帰謬論者たちの時間のパラドクスは、暗黙のうちに時間を「本体」として(典型的には過去・現在・未来という空間表象的秩序において)扱うことで現われるものにすぎない。われわれはこういわねばならない。「過去・現在・未来」が「ある」は「実在する」ではなく、「現前意識」のうちで構成される「世界」の現出の秩序性であると。

 デリダによる、フッサールの現前意識批判は次のようなものだった。

 「絶対的今」は存在しない、なぜならどんな「今」もすでに「非今」(過去)を含むことが証明されるから(典型的な帰謬論!)。

 しかし竹田は言う。

 フッサールの議論の核心は何か。まず注意すべきは、フッサールはどこまでも「現前意識」に定位して、「生き生きした今」の構造を本質記述にもたらそうとしているのであって、「生き生きした今」を可能にしているものを悟性的に分析しているのではないということである。

 デリダは、「今」(現前意識)を可能にしているものとして「差異の運動」なるものを想定した。

 しかしこれは、「今」を相対化するための作り物にすぎない。「差異の運動」なるものが「ある」のかどうか、私たちは決して明示しえない(意識の裏側に回ることはできない)。

 言えるのは、「現前意識」のみが世界確信の底板であるということまでであって、これを可能にしているものは問えないのだ。

 それゆえ問うべきは、「生き生きした今」(現前意識)はどのような本質構造を持っているかという問いだ。

 フッサールが言ったのは、まさしくそのようなことだった。

 時間の「本体論」をやめよ。絶対的な「時間」の正体を、私たちが客観的に明らかにすることはできない。

 したがって、時間がどのように現前意識に立ち現れるかを観取せよ。竹田はそう言うわけだ。

3.欲望論的時間論

 ここから竹田は、「今」の本質解明を次のように叙述する。

 この「私」が生きているという事実性、「私」が世界を意識し「私」自身を意識し、「私」の世界を生きているという意識、それが「私」にとって「今」が現われ出ることの源泉である。この「私」の思念が、あるいは思念の進行が「今」である。

 では、この「私」の意識において、時間はどのように確信されるのか?

 ここで竹田は、「判然的現前」「情動継起」「情動累積」という概念を提示する。

 『内的時間意識の現象学』で時間の本質観取を行ったフッサールに欠けていたのは、この観点だった。

 決定的に重要なのは、フッサールの洞察においては、現前意識における情動的諸契機が抜け落ちているという点にほかならない。

 では「判然的現前」とは何か?

 ありありとした知覚体験の持続において現われ出る対象存在の明証的、判然的な同一性と現実性の確信を、われわれは「判然的現前性」の概念で呼ぶ。

 これは、前に見た「個的直観」「本質直観」「情動所与」の三契機とほぼ同義のものだろう。要するに、情動所与を伴った、ありありとした対象の現出のことだ。

 この「判然的現前性」は継起性をもつ。特に情動的な継起性をもつ。

 そしてここにこそ、私たちの時間確信の本質があるのだ。

 メロディーの知覚を例に考えてみよう。

 「私」は一つ一つの音を能作的に「つなぎ合わせて」聴くのではなく、つぎつぎに新しいフレーズ(あるいはメロディ)が継起的に到来的に所与される、という仕方で曲を聴く。この場合のフレーズやメロディにおける単位的な「まとまり」をわれわれは「現前的単位」と呼ぼう。
 そこでは、いわば始発点の一音も、メロディの後半の音が響く「今」の場面において、一つの知覚–体験の契機として“消えずにとどまっている”。この“消えずにとどまっている”の感覚をフッサールは「過去把持」と呼ぶのである。
 われわれは、この“消えずにとどまっている”を空間化された時間表象においてではなく、現前意識における一契機としての「情動継起」、そして「情動累積」の概念によって示してみよう。

 音楽が私の知覚体験のうちで「消えずにとどまっている」こと。ここに、現前意識の継起性と累積性が見て取られる。

 われわれはたえず刷新され続ける「情動累積」をつねに一つの「現前」としてもつのである。

 「判然的現前」「情動継起」「情動累積」、この3契機こそが、私たちの現前意識において観取される時間の本質構造なのだ。

(続く)

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