2013年7月20日の日記


 日記でも書こう。


 と言っても何を書いていいのかわからない。現実に起きたことだけ書いてはとても量を稼ぐことはできない。自然と空想を大量に添加する必要がでてくる。しかしその添加する空想をどこから抜き取ってくるのかということが問題だ。冷蔵庫か?倉庫か?(中略)俺は一体どこからそういう空想の調味料を探してくればいいのだろう?この悩みを一体誰に聞いてもらえばいいのだろう?そんなものは初めからわかっている。神様だ。でも神様なんてものはいないから俺の独り言は風の中へ消えていく。それも仕方ない。誰かが風の中に消えた俺の言葉をつむぎだして布を織って寒さをしのいでくれればそれでいいと思うよ。人間なんか滅亡してしまったはるか未来にでも。

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 (中略)


 支離滅裂だな、ってこの文章を読んだ奴は思うかもしれない。しかし支離滅裂でない文章とは一体存在するのだろうか。支離滅裂でない文章を読みたいんだったらロボットの作った書籍でも読んでいればいいんだ。ロボットが棚に本を並べる本屋で、ロボットが毎日決められた時間、決められた場所に出勤して決められた姿勢でせこせこキーボードを打ち続けた末にこしらえた排卵誘発剤みたいな文章。俺の文章を読みたくないっていう輩はみんなそんな文章を読んでりゃいいんだ。もっと「ほどほど」なものが読みたいって?それなら君は青酸カリでもぐいとあおるがいいさ。きっと光と虹にあふれる神のひざもとの千年王国で、それ以外は読まなくてもいいと思えるような本に出会えるだろうよ。

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 全く、まったく糞みたいな文章を俺が書いているのには理由があるんだ。それは、俺が何事もこの文章で伝えようと思っていないからなんだ。俺は頭を宇宙よりも空っぽにしている。そして文章を書いている。宇宙だから、時々ホワイトホールにであるわけだ。だからそこからぽいぽいとひりだされてくる言葉をつかんではほいほいと俺は文章にしているわけだ。だからむちゃくちゃな文章がこしらえられるのは仕方がないというわけだ。それはいわば宇宙のむちゃくちゃさなんだ。でたらめにビッグバンがおきて、でたらめに空間が広がっていって、でたらめにいつか収縮する…そんな宇宙そのものがむちゃくちゃだからホワイトホールもむちゃくちゃで、そこから生まれる言葉もむちゃくちゃだってわけだ。「初めに言葉ありき」初めに言葉なんかあったから世界はめたくちゃになってしまったってことさ。


 全く日記が進まないね。まあいいさ。日記なんてものは読む以上に書く事の方が重要なんだ。糞っていうのはひりだすこと自体が重要で、ひりだされた糞自体はどうでもいいのさ。あんたがくだらない健康第一主義者だっていうのなら話は別だがね。しかしね、自分の日記を定期的ににやつきながら読み返す奴にろくなのはいないっていうのは俺が得た人生における貴重な教訓の1つだがね。


 まあしかし俺は9時半に起きた。それは間違いない。誰に言っても恥ずかしくない事実だ。だって事実なんだから。少なくともそう俺は思っている。そしてパンにチョコレートをぬって食べ、それからなんか玉子焼きみたいなものと、野菜炒めを食べ、紅茶を飲んだ。昨日たくさん歩いたから足は痛かった。なんで昨日歩いたのかっていうことを説明するためには映画を3本くらい撮らなくちゃいけないから何も聞くんじゃない。どうしても聞きたいなら映画を作る金を用意してからくるんだな。それならちょっとは考えてやる。というか映画をとってやる。フランスの、そうだな。ブレトンのあたりの田舎町。海沿いのな。白い砂…があるのかどうかわからない。森と丘がある、魚料理がうまいそんなブレトンの田舎町でゴダールも靴を頭に載せて逃げ出してしまいそうな高尚な映画をとってやるよ。そしてそのフィルムをあんたに礼として送りつけてやるよ・・・


 こんなことは本当は書きたくなかったんだ。こういうなんていうか大言壮語というか、誇大妄想的な文章は書きたくなかったんだ。でも書かずにはいられないんだ。なんてたって自分の矮小さを一番よく理解しているのは自分だからね。矮小に耐えられない人間がごてごてと偽者の、はりぼての何かをとりつけようとするのは当然じゃないか。自我に目覚めた骸骨が肉を自らの体にはりつけようとするのと同じさ。ゾンビが生者の肉を食らうのと同じさ。まんこがペニスを求めるのと同じさ。足りないものがあるから、それを求めるんだ。でもそれはどこにも売っていないから、仕方ないから自分でこしらえるんじゃないか…


 第一、俺は俺に何が足りないかということすらわからないんだ。


 今、俺の文章はヘンリー・ミラーの影響を受けている。自分でそれはわかっている。これはどうしようもない。核というものを作り損ねたあわれな人間というものは何でも拠ってたつものを探すようになるのさ。ただそれだけさ。今の俺にとっては指標というものがヘンリーミラーなんだ。ただそれだけだ。それがダンテだったこともあるし、ゲーテだったこともある。セルバンテスだったこともマーク・トウェインだったこともシャーウッドアンダーソンだったこともケルアックだったこともある。でもいつしか俺は自分を暖めてくれていた外套をすててしまう。ああ、これは俺のものじゃなかったんだ。ってね。でもその実、外套を捨ててしまう本当の理由は、その外套が自分の垢で汚れてしまったからなんだ。つまり本当は俺は自分のことが大嫌いなんだ。

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 いやそれは違う。自分の肉体が大嫌いなんだ。いやそれも違う。俺は、自分の思考や行動というものをある狭い、細い、矮小な1つの方向に狭めてしまうじとじととした経験って奴が大嫌いなんだ。だから俺は逃げ道を求めて古典を読むんだ。しかしこんなことは18世紀や19世紀などの、忌々しくも愛くるしい近代小説を発明した奴らがもう何度も何度も繰り返したことだ…

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 これは日記か?いや日記じゃない。日記ならせめて理解できるように書くべきなんだ。しかるに今俺は誰かが読んで理解できるか?などという命題は頭からすっぽりと蹴り飛ばしてしまった上でこの文章を書いている。じゃあこの文章はなんなんだろう?ただの排泄行為、それが結局一番近いのかもしれない。排泄行為!昔の大家は借家人の糞を糞屋に売って金に換えていたらしい。だから糞は大家にとって貴重な収入源だった。それだったらなんだろう?友達の家に遊びにいって、そこで糞をしたら大家は怒るのだろうか?そんな馬鹿な話はあるだろうか?「徳さんよ。あんた梅さんところの長屋で糞をしたってきいたよ。駄目じゃないか。ちゃんとうちのところでばばたれてくれないと…」そんな会話を大の大人がしていたのだろうか?なんて地獄なんだ!地獄じゃなかったとしても俺はそんな時代に行きたくない!しかし本当に恐ろしいのは、未来の人間から見て、糞を取り合うのと同じくらい馬鹿なことを、現代の俺たちがしているのかもしれないってことなんだ。

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 全く日記は進まないね。本当に日記の文章は進まないよ。意味のあることはまだ「9時半に起きた」ということしか書いていないよ。それはまずいね。まずいよ。ああ、朝飯についての描写はすませたんだっけね。そしたら次は何をしたんだったか?ああ、バルザックのね、ゴブセック、という小説を読んだんだよ。ある金貸しの話さ。全く19世紀のフランスの小説には決まって手形が出てくる。それはもう1つのパターンなんだ。行為能力を制限されても仕方ないと思えるような馬鹿な浪費をする貴族が、手形の支払いに汲々して破産する。それがパターンなんだ。水戸黄門のような、黄金メソッドなんだ。でもそれが面白いんだ。美しい宝石を着飾っていた貴族が、繻子の靴をはいて、亜麻色の髪をしっかりとあみあげて、光輝くドレスをひいて、若い端正な顔立ちのろくでなしを部屋にひきこんで後背位で交わって子宮にたっぷりスペルマをかけられていた貴族の雌が、薄汚い、汚れた紙きれ一枚のために豚のような金貸しの足でも舐めるような素振りをみせる…そういうシーンが決まって出てくるんだ。フランス小説には。そして読者はそんなシーンを読んでペニスを怒張させ、目を血走らせて興奮してうさをはらすんだ。つまり全てのフランス近代小説は結局のところサドの子孫なんだ。マイルドなサドなんだ。それは現代においてもいまだに繰り返されるモチーフなんだ。「お嬢様は風俗嬢」。世の腐りきったペニスを持つ雄どもの求める所は結局それなんだ。(中略)男はそんなロマンを胸に秘めているんだ。でも有志以来奴隷だったのは男の方だったのだ。女はかなり高い確率で遺伝子を残すことができるが男はそうでもないらしい。今いる雄の内10パーセント程度の奴らしか子孫を繁栄させることができないんだって!悲しいね。


 また支離滅裂になってきた。滅裂というか、要するに、言葉に責任を持つことができないんだ。言葉というものが怖いんだ。言葉というものが人に与える、全く意図していなかった意味、とか、つまりそういうものが怖いんだ。自動的に暴走する言葉が怖いんだ。それはモルボルのようなものなんだ。つまり。大学生になって福井あたりから東京へ出てきた暗い性格の女の子がいるとする。暗い性格だから友達も出来ず、知人もいない大都会で寂しい毎日を送っているとする。寂しいから町はずれのホームセンターをうろついていたところ、綺麗な球根を見つけたので買ってきて鉢に植える。大学生活になじめなくて、せめて自分を慰めるために買った植物。どんな花が咲くのかな?と楽しみにしていながら水をあげていたが、ある日その球根からうりゃうりゃと触手が這い出してきて、彼女の穴という穴を埋め尽くしてしまう。言葉っていうのはこの触手みたいなものなんだ。それを最後の希望と思ってすがりついてきたあわれな少女を体の隅々まで食らいつくし、犯しつくす。そういうものなんだ。言葉っていうのは。


 日記の描写は進まない。まあとにかくバルザックの小説を午前中は読んでいた。俺はいけすかないゴプセックに心の底では拍手喝采を送りながら、興奮しながら小説を読み進めていった。そうこうしているうちに太陽は人々の頭頂を照らした。つまり正午になったんだ。昼食のパンをほおばり、またちょっと小説を読んでから昼寝を始めた。何の小説かというと我らがヘンリーミラーだ。今日は朝から本ばっかり読んでいたので俺は夢の中ですら本を読み続けていた…どんな本だったか、ということはもちろん記憶にはない。それは消え去ってしまったのさ。どこか遠くへね。


 夕食は刺身定食だった。食後風呂に入って本を読んでパソコンをやっているともう日付が変わる。つまり今だ。と、まあ幻想というものを用いなければ日記というものはこんなに簡単に終わってしまうものなのです。それを理解していただければ俺がなぜこんなにも多くの幻想や妄想を日記に盛り込んだのかということがわかっていただけると思うのですがね。

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