我妻栄について
1914年、我妻栄は山形県立米沢中学校を卒業する。その後第一高等学校に入学するが、そこで岸信介と出会う。1917年に高等学校を卒業し、両者ともに帝国大学法学部に入学する。
一高は89年まで一ツ橋に存在していたが、その後本郷弥生町に移転。さらに1935年には東京帝大農学部と用地を交換し駒場に移転する。一高は1950年には廃止され、駒場は東大教養課程時のキャンパスとなる。
だから、岸および我妻が在学していた当時は一高は本郷にあったというわけだ。(谷崎などが在学していたのも本郷時代の一高だったことになる)
http://okibun.jp/wagatumasakae/
我妻は米沢中学校でも秀才で有名だった。人に教えることがすきな生徒だったらしい。
我妻栄の生家は記念館となっている。所在は山形県米沢市中央である。米沢駅前から、一番大きな通りである県道6号線をずっと西に歩いていき、最上川に架かる橋も越えてさらに歩いていく。するとやがて県道233号線との交差点、米沢信用金庫本店のある角が見えてくるからそこを右に曲がる。そこからさらにずっと北に歩いていって、よねざわ眼科のある角のところで左に曲がって歩いていくとやがて左手に我妻栄記念館が見えてくる。小ぢんまりとした木造2階建てである。板などは年季が入っているように見えるが瓦はそこそこ新しく見える。構造はほぼそのままらしいが素材は何度も交換されているのだろう。
記念館のホームページを見る限りでは、家は移築されたりはしていないようである。大正7年に我妻家から大友家に売られ、その後70年たって昭和の末期になって市内の建設会社の手に渡った。建設会社は老朽建造物ということで家屋を取り壊そうとしていたのであるがこれを聞きつけた有志が募金を集めて土地を含めてこれを買いうけ、記念館に仕立て上げたとのことである。
急な階段を上った先の2階の和室6畳間が我妻栄の勉強部屋だったそうである。
家屋を正面から見ると手前に吹き出物のように浮き出ている構造物があるがこれはトイレである。元々ここに厠があったのか、それとも記念館になってから増設されたものであるのかということはわからない。玄関から中に入ると廊下が左右に伸びていて、左に行くと台所・厠があり、右に行くと茶の間がある。茶の間からは取次部屋へと行くことができて、その奥には土蔵があるがこれは現在資料展示室となっている。台所のそばに階段があって、そこから2階へと行くことができる。
まあとにかく我妻栄はここで米沢中学校を卒業するまで暮らしたというわけだ。一高では寮暮らしをしたのであろうか?
三木清の「読書遍歴」なるエッセイによれば我妻は一高時代ボートをやっていたそうである。これについてはちょっと情報が少ない。
1914年から1917年までの3年間とはどういう時代だったのであろうか?
まだラジオはなかった。映画は無声で、活動弁士が解説をくわえるのが普通であった。
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