雑文


 雑文すら書けなくなってしまった、と誰かが呟く。いや、僕はそれが誰だったのかということを知っていた。彼は僕に名札をくれたのだった。特に珍しくもない名前だった。かといってどこにでもよくいるような平凡な名前でもなかった。いっそのこと「山田一郎」とかそんな感じの平凡な名前だったら忘れなかったかもしれない。僕はあまりにも平凡な物は忘れない。忘れてしまわないように身構えるからだ。平凡な物の中から何か印象に残るようなものを無理やり探し出し、そしてそれを一生懸命記憶に定着させようとする。そういう作業を経るとどんなに平凡な風景でもあるいは退屈な人間でも永遠に覚えていることができる。逆に何かとっかかりのあるものはすぐに忘れてしまう。「ああ、この人の名前は簡単に覚えることができそうだな」と安心してしまうからだ。僕は気を張っていないと何もすることができない。筋肉を緊張させ、心臓の鼓動を十二分に加速させない限りドアを開けて外を出歩くことすらおぼつかない。人の名前を覚えておくことすら出来ない。…しかし僕は彼から名刺を貰ったのだから、思い出すことは出来なくても調べることはできる…はずであった。僕は彼の名刺をどこにしまったのかということを忘れてしまったのだ。もちろん無くしてしまった、あるいは自らの意思で捨ててしまった可能性だってある。その可能性が大掛かりな捜索に踏み切ることを躊躇させる。何かを時間をかけて部屋の中を探して、結局見つからない。その場合僕は「探し方が不十分」だったのか、それとも「始めから探しているものは部屋の中になかった」のか区別をつけることが出来ない。そういう状態に追い込まれることを僕は心の底から恐れている。僕はそういう状況に陥る事態を回避するためであれば、金でも身内でもどんなものでも犠牲にしていいと思っている。

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 雑文すら書けなくなる。そんな事態がありえるだろうか?本当の意味で文章を書くことができないのであれば、そもそも思考をすることすらできないはずだ。思考ができないのであればそもそも雑文を書こうとする意欲すらわかないはずである。それならそのことに絶望することもないはずである。となると文章が書けないといって悩んでいる人間は、本当は書くことはできるのである。ただ何か、周囲の人間には知覚も理解もできないような事柄が、彼が何かを書くことを妨げているのである。それならその何らかの事柄を取り除いてしまえばいいだろう、と普通の人間なら考える。しかしその事柄が彼という人間と深く結びつき、癒着してしまっている場合にはそれもできない。初期の癌であれば切除して治すことができるが、癌が臓器とどちらがどちらなのかわからないほどに進行してしまった場合にはもう治癒が不可能であるというのと同じことである。

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 僕は雑文を書くことができる。僕は現に今文章を書くことによってそれを証明している。…彼だって実は書けたのかもしれない。ああ呟いておきながら、家に帰ってから実はこっそりと書いていたのかもしれない。しかしそんな嘘をつく意味を彼は有していただろうか?しかし意味のある嘘しか人はつかないものだろうか?いずれにしても僕は彼とはもう何年も会っていないし、名刺もなくなってしまった。彼が実際どうだったのか、ということを知る術は、もうなくなってしまったのである。

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