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杖を持った男①


 杖を持つ男が廊下に立っていた。よく目をこらしてみてみると、それはナガシマだった。

「ナガシマ、お前はどうしてこんなところに立っているんだ?」

 僕は教師だった。何十年も前に試験を受けて合格し、この職を手に入れたのだ。僕が大学を卒業したばかりのころは職業難の時代で、街にはどこにも失業者があふれていた。道端を歩いていてといきなり娼婦に手首をつかまれて路地裏にひきこまれそうになったことも、タックルをくらって道端に転ばされて靴を無理やり磨かれて代金を請求されたこともあった。法律なんてものは全く意味をなしていない時代だった。そんな時代に僕は青春時代をすごしていたのだ。


 今年の失業率は例年に比べたらかなり高いということらしいが、僕らの頃に比べたらなんということはないというのが正直な気持ちだ。その気になれば町に落ちている金属を拾ってでも食っていくことはできるのだ。


 僕は公立高校の教師だったから、色々な高校を回った。定時制の高校で働いたことも、進学校で働いたこともある。学校の偏差値には色々と差はあれども、中身はそれほど変わらなかった。みんな同じようなことで悩み、同じようなことで笑っていた。そして同じように馬鹿だった。ナカジマもそんな生徒の1人だった。


 ナガシマの持っている杖の先端には何かぬめぬめとした液体が付着しているようであった。僕は持っていたライトでナカジマの全身を照らしてみた。杖の先端は真っ赤だった。対してナカジマの顔は蒼白だった。


「それは血か?」

「うん。昼間青木の頭をこれで殴ってきたんだ」


 青木というのは昔の同僚だった。熱血漢で、柔道の段位を持っていて、子宝にめぐまれた暖かい家庭を持つ気のいい男だった。


「なんで殴った?」

「なんだか許せなくてさ」

青木は数年前淫行で逮捕され、執行猶予付きの刑を受けていた。今はどこかの中学校で用務員として働いているとのことだった。


「殺したのか?」

「わからない。あいつが校門から出てくるところを待ち伏せして襲った。それからすぐ逃げて、夜になるまで川原の茂みにずっとひそんでたんだ」

「僕も殴るのか?」

 ナガシマは小さく頷いた。

 僕はどうしていいかわからずにライトを持つ腕を下に下ろした。ナガシマの顔はまた闇に沈んだ。その顔がなんだか不気味だったので慌ててライトを持ち上げてナガシマの顔を照らした。

「とりあえず宿直室にいかないか?」


 僕は逃げ出す機会をうかがっていたがナガシマはなかなか隙を見せなかった。結局何もできないままに僕は宿直室にたどり着いてしまった。僕はため息をつき、とりあえず茶でも入れて出してやることにした。


「青木を殴ったのは、淫行が許せなかったのか?」

「うん」

「何か、事件にお前が関わっていたのか?被害者の子が知り合いだったとか?」

「いや、そんなことはないよ」

「じゃあなんで?」

「どうしても許せなかったんだ。教師が淫行をしたことが」

「しかしな、あれはもう何年も前の話で、裁判も終わって決着がついた話なんだぜ?」

「俺の中では終わってなかった」

「うーん…」


僕はタバコを取り出して吸い始めた。

「僕も殴るのか?」

 言ってから、さっきも同じ質問をしたな、と気づいた。
 ナガシマはさっきと同じように小さく頷いた。

「仕事はあんまりうまくいってないんだっけ?」

 また彼は頷いた。

「なんとなくわかるよ。昔の教師がわけもなく憎くなる気持ちというのは。僕だって全く覚悟をしていなかったというわけじゃないんだ。そりゃあね、こういう仕事だからね…。しかしな、なんでお前なんだ?ナガシマ。お前は僕の長い教師生活で出会ってきた生徒の中で唯一親しくしている生徒なんだぞ?正直な、僕は暴れる生徒を、情け容赦なく通報して警察に送ったこともある。クラスの中のいじめを見て見ぬ振りしたこともある。名前も顔もろくに覚えることなく見捨ててきた生徒もたくさんいる。そういう奴らに恨まれるというのならなんとなくわかる。しかしお前は不良でもなかったしいじめられていてもなかった。目立つ生徒ではなかったかもしれないが、部活は一生懸命やって楽しそうに学校生活を送っていたじゃないか?そして何より僕達は何年かに一度は食事をして、仲良くやっていたじゃないか?なのにどうしてお前は俺を殴るんだ?」


「ごめん」


 ナガシマはそういうと杖を持ち上げて振りかぶり、それを僕の頭めがけて思い切り振り下ろした。その光景がその夜の最後の記憶となった。

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