雑文 冬の寒さ


 まあ寒かった。ああ、なんと寒かったことか。空の青さを楽しみ、あれこれと思索する余裕など一切なかった。ただひたすらに脚を持ち上げては少しでも前に落としていく。その作業を繰り返すことしかできなかった。


 僕を支配していたのは後悔だった。外出などせずにずっと部屋の中で布団にくるまれていればよかった。せめて行きを電車にして、帰りを徒歩にすればよかった。正午の方がずっと暖かいのだし、より標高の高い場所から川岸の町へと降りてくる方が楽なのは明白なのだから…。そんなことを歩きながらずっと考えていた。…ところで冬の寒さが詩情を養い育てるという意見があるが、あれは半分正しくて半分間違っている。冬の風、嵐、吹雪、その他諸々の地獄の只中にいる間は詩なんて書けるものではない。普段詩だの小説だのを放り出し垂れ流している穴は、冬の寒さの中では凍りついてしまう。寒さの只中にある時はただひたすらに春の暖かさ、そこまでいかなくても陽光が自分に降り注いでくれることしか願わない。ただ、ほんのちょっとでも寒さが和らげばたちまち蛇口にこびりついていた氷がとけ、何かに復讐でもするかのように抑えられていた詩情がじゃばじゃば流れ出すことになる。そういう意味では冬が詩情を育てるというのは正しい。しかし冬そのものは詩人を痛め付け、殺すものである。なるほど究極の芸術を生み出すために詩人をシベリア送りにするというのは1つの手かもしれない。しかしそれをやるなら絶対に暖炉も用意してやらなくてはならない!あたたかいスープも、腹いっぱいのご馳走も必要だ。もしそれが出来ないというのであれば…。それが出来ないというのにも関わらず詩人をシベリア送りにするというのであれば…。それは単なる殺人に過ぎない。

 とにかく寒かった。しかしふと風がやみ、しかもうまい具合に建物がなくて、思う存分陽を浴びながら歩いていける、という時間も度々あった。そういう時は心底「ああ、外出してよかった」と思うことが出来た。そういう時の気持ちよさ、というのはちょっと言葉にすることが出来そうにない。しかしそういう至福の時間は日陰に入るとすぐに消え去ってしまう。この感情の目まぐるしい変遷。それを目の当たりにする時ほど僕は自己の同一性のうさんくささを強く強く感じることはない。

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