2013年8月7日「散文詩的雑文」


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 いる。


 確信して僕は駅の改札をくぐった。利用する予定のなかった駅。しかしその構内にやつがいると確信したから、僕はパスモを改札にあてて中に入ったのだ。

 ホームの真ん中あたりに並べられたベンチに、やつは確かに座っていた。
周りのやつらは気づいていないが、僕だけは気づいている。そこにやつがいることを。


 僕はジュラルミンケースをあけ、中からスーツを取り出した。シャツも、ズボンも、ネクタイも。僕はひとつひとつほこりをはたき、皺を伸ばしてからやつに着せていった。やつの姿はまわりからは見えない。僕だって見ることはできない。しかし触ることはできる。透明人間、という呼称が一番ふさわしいだろうか。しかし本質的にはまったく別物なのだ。

 マスクをつけ、サングラスをかけてやるとだいぶ人間らしくなった。手袋もつけ、靴もつけてやった。最後に帽子をかぶせると、やつはかなり人間らしくなった。

 僕は売店でパンを買ってきて、パンを食べさせてやった。マスクをずらし、そこにパンを押し当てる。少しずつパンが削れていく。スーツの中ではどんなことが起きているのだろう。脱がせてみればわかるのだろうが、一度脱がせてしまった以上勝手に脱がせることはできないのだ。もはや。

 ミルクを飲み干したところで、電車がやってきた。やつは立ち上がって、僕に一礼して、乗り込んでいった。僕をおいて。


 いつもこうだ。スーツを着せると、やつは電車へ乗り込んでいってしまうのだ。僕はその電車に乗ることはできないのに。警笛が鳴り響くと、瞬く間に電車は行ってしまう。ホームには僕がたった一人で残されるが孤独の時間も長くは続かない。また数分後に電車はやってくる。それを目当てとした人々が次々とホームへ押し寄せてくるのだ。


 その中にやつはいる。さっきのやつとはまた違うやつだ。しかし僕のケースの中にはもうスーツは入っていない。また買わなくてはいけない。借金で首がまわらなくなることはわかっているのだが、仕方ない。中毒のようなものなのだ。

 ふと、僕自身の服を脱いで、やつに着せてみようかと思った。しかしすぐにその考えは改めた。僕が服を全部脱いだら全裸になる。そうしたらすぐにあちこちから悲鳴がわきたち、駅員か、鉄道警察隊だかなんだかが出てきて、僕をどこかへ連れていってしまうだろう。そうしたらやつに服を着せるどころではない。それが世界の仕組みなのだ。


 だから僕はとぼとぼと駅から出ていった。

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