雑文 不良の系譜


 1950年代。学生運動拡大期。当初は運動を行う学生は民青と呼ばれる共産党の下部組織に加入しているのが普通であった。しかしスターリン批判が行われた頃から若者たちは既存の左翼組織に失望するようになり、共産党や社会党から離れたところで運動する者たちが増えていった。1960年の安保闘争などはそういう非セクト主義の人々が中心となって起こしたものであった。


 50年代にはカミナリ族と呼ばれた集団がいた。バイクに乗って暴走行為を繰り返す若者たちのことであるが、当時まだバイクは高価であり、彼らはどちらかといえば親が富裕層に属する者であった。


 50年代前半の共産党は闘争路線を採用していて、各地で暴力事件を起こしていた。何が何だかよくわからないがとにかく暴れまくりたい若者で、共産党の命令を受けて暴力行為を行っていた若者は当時結構いたのではないだろうか。


 戦後は混乱した時代であった。復員したはいいが社会に溶け込めずぶらぶらしていた若者がいた、戦争で親を失って孤児となってしまった者たちもいた。そういう者たちの中に不良の道に足を踏み入れるのも当然いて、彼らは愚連隊などと呼ばれた。そんな愚連隊の中には民族的アイデンティティを核として集まった者たちもいた。

 

 1960年代。学生運動全盛期。学生たちは様々なセクトに分かれて独自に運動を行っていた。しかしその内にセクトにとらわれず、自由に学生運動を行おうという主義の若者たちが現れる。彼らが一致団結して始めたのが全共闘運動である。この全共闘運動には学生運動にはそれほど興味のなかった一般学生も数多く参加した。全共闘運動が一番盛り上がった60年代後半には、運動に参加し、マルクスなどを読んでいる学生が「かっこいい」とされていたのである。学生運動はそれ自体がひとつのファッションであった。一種のブームだったので、終焉するのも早かった。全共闘運動は70年代になると急速に廃れ、従来のセクト主義が復活し、さらに先鋭化していった。

 知恵袋のある回答によれば、60年代のカミナリ族たちが乗っていたのはホンダのCB72かヤマハのYDS1だったらしい。この時期は物価の変動も激しいのでこれらのバイクがどれぐらい高価なものだったのか、調べるのは少し骨が折れる。しかし50年代よりはバイクは手にいれやすくなったのではないだろうか。


 1970年代。学生運動は下火になる。それと同時に暴走族というものが社会問題化してくる。

 東野圭吾の「あの頃僕らはアホだった」というエッセイによれば、当時の不良たちはロックよりも演歌を聞いていた。東野の友達がビートルズの秘蔵映像の上映会のチケットを手にいれたので、友人何人かで行こうということになったのであるが、チケットが1枚あまってしまった。これをどうしようかと相談しているところに不良グループの内の1人が近づいてきて、「それ俺にゆずってくれへんか」と頼んできたので驚いたそうである(その不良の彼女がビートルズが好きだったので、勉強しておこうと思ったそうである)。ロックはまだまだ不良というよりはちょっとませた奴らが聴くものであった。不良とロックが結びつくのはキャロル登場以降のことになる。

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