2017年10月19日の日記
昨日書けなかったことを書いていくことにする。
図書館につくとまずフローベールの狂人の手記を手に取った。これがまず非常に面白かった。筋はあったないようなもので、内容のほとんどが若き日のフローベールの内面告白といったような作品である。「自分がこれから何を書こうとしているのか、自分でもわかっていない」などというような文章があったが、これは偽らざる本音であったことだろう。小林秀雄が言うように、まさにフローベールは「無」を書こうとした作家であった。無を表現するためのいわばキャンバスと絵の具が、彼にとっては片田舎の夢見がちな人妻であり、古代カルタゴであり、現代パリであり、砂漠の隠者聖アントワーヌであったのである。何も書かなかったのではなく、彼は無を書いたのである。この違いを理解するのは日本人には至難のわざである。
彼は美と無を区別していたであろうか?彼にとっては無は美の源泉であり、美は無を表現するための道具だった。それらは渾然一体として溶け合っていた。もちろんそんな自分に自足していたわけではない。「ありとあらゆる果実をちょっと齧っては吐き出したために、今では空腹に苦しんでいる」こんな文句を一体誰が考え付くことが出来るというのか?
この狂人の手記があまりに面白かったのでちょっとソファーに座って読み込もうと思った。しかし左に座っている老人がひっきりなしに鼻を啜っていてその音が非常に気に障ったので一旦借りて外のベンチでコーヒーを飲みながらこれを読むことにした。30分ぐらいこれを外で読んだ後でまた図書館に戻ってきた。
その後私は地下に行き、今度はたまたま目についた決定版番付集成を読んだ。これは何がどうということもない。ただ眺めているだけで面白いのである。ああいった番付は18世紀末から作られるようになったとのことだが、大量に作られるようになるのは19世紀、それも幕末近くになってからのことだったらしい。実際この集成に収録されているのも多くは1840年以降に作られたものであった。
何が印象に残っただろうか?加賀の文化人番付などは面白いと思った。そんなローカルな番付もあるのだと思った。江戸の料理屋のだけでなく、鰻屋だけの番付があるというのも面白かった。寿司や蕎麦専門の番付もおそらくはあったのではないだろうか。
それからちょっと江戸の都市のことについてまとめた資料集を読み、それから中央公論社日本の近世女性の近世編を読んだ。
それから人間三国志・竹林の七賢編も読んだ。嵇康のことについて、参考になる記述がいくつかあった。ギョウの城に、曹一族が集められていたという話は始めて聞いた。山陽県城はギョウにほど近い。嵇康がそこに居を定めたのも、その辺りが曹一族の勢力圏だったからではないか、と著者は分析していた。
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