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Twitterのこと 4.

※ こちらの内容は、ウェブサイト(現在は閉鎖)にて2016年~2019年に掲載したものを再投稿しています。内容等、現在とは異なる部分があります。ご了承ください。

火種である当事者同士がやり合っている分には、そこは賢い人同士の意見や考え方の相違というだけなので、傍観者でしかないぼくにすれば ”確かにその通りだな” とか ”それも一理あるな” ”そう言えばわかりやすいのか” と、ある意味思考のトレーニングになるといった良い側面もある。

ところが著名だったり人気のある人には多くのフォロワーがいて、その中にはやはり信者のような人たちもいるので、今度はそうした人たちがそれぞれの加勢をはじめるようになる。
つまりこれが火種に薪を焚べ、燃料投下することになりそこへ付和雷同した人たちまで加わって炎上へとつながる、というのがその仕組みだと思う。

ここまでくると、もうなんだかよくわからないまま同調圧力によって加わった人たちまでいるのでフォロワー同士の罵詈雑言の中には、本題や本質とは無関係な人格への攻撃といった感情論まで含まれてくる。
その論点のずれた罵り合いはまさにマウントの取り合いだし、ネットリンチと呼ばれるような酷いものになるとマウントを取った方が一方的に、それも執拗に攻撃をするだけなので、PRIDEでのセルゲイ・ハリトーノフvsセーム・シュルトを思い出し戦慄さえ覚える。

場合によっては火種の段階では良い問題提起だったかもしれないのに炎上によって無駄になってしまうのはもったいないと思うし、それ以上に感情論って面倒だな、同調圧力ってデビルマンのラストシーンを思い出すようで恐ろしいな、ネットリンチって嫌な言葉だなぁと、見ているだけでも疲れてくる。
自分が当事者でなくても罵詈雑言やネガティブなツイートを目にするのは疲れるし、気持ちだって消耗する。
これらに加え、以前はあれもこれも逃すまいとフォローをした結果、日々流れてくる多過ぎる情報やネガティブなツイートに疲れ、ぼくはツイッターから離れた。

FBの場合、選ぶ公開範囲さえ間違わなければユーザーにとっては優しい世界でとてもプロレス的だ。基本的には好意的な人たちでつながり「友達まで」などにしてしまえば、そこから先はプロレス的予定調和な世界が待っている。

「相手レスラーをロープに飛ばせば、技を受けに戻ってきてくれる」
「ちょっとした話を投稿すれば、好意的な友達が『いいね!』を押してくれる」

「コーナーポストに登れば、飛んでくるまで技を受けるためによけずに待っててくれる(たまによけるレスラーもいる)」
「いい話を投稿すれば、好意的な友達が『いいね!』だけでなく、好意的なコメントをくれる(たまに異論や反論もある)」

ぼくがFBに対して何か違うなぁと感じているのはおそらくらくこれであり、またこの予定調和な世界は優しい世界ではあるけれど、きっと飽きられやすいものでもあると思う。

最近、何周かしてまたツイッターがおもしろいかもと感じるようになった。
以前のように疲れたり依存するほどやろうとは思わないけれど、能動的に選ぶ相手や数さえ気をつけていれば自慢だったり、説教くさいもの、罵詈雑言や殺伐としたツイートが流れてくることもない。
また自ら発言することのリスクが心配なら見ているだけでもやはりツイッターは有益な気がするし、実際ぼくも今のところはリストを見ているだけだったりする。

ツイッターほど諸刃の剣なSNSもないと思うし、気づいたときには自分が薪を焚べ、燃料投下をしている側にならないよう上手に距離を保ちたい。

深淵をのぞくとき、また深淵もこちらをのぞいているのがツイッターなんだと思う。

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