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料理下手な、おばあちゃんの話

※ こちらの内容は、ウェブサイト(現在は閉鎖)にて2016年~2019年に掲載したものを再投稿しています。内容等、現在とは異なる部分があります。ご了承ください。

『ぼくは、グルメじゃない』という話を書かねば、と思っていたけれど、それを書くにも避けて通れない話があることを思い出した。

もうずっと前に亡くなったうちのおばあちゃん。
両親が共働きの家庭だったぼくら兄弟は、家事のほとんどをおばあちゃんが面倒をみてくれた。
その中でも特筆すべきは彼女による手料理で、あれを手料理と呼んでいいのか・・・いま思い出すと酷かったという記憶しかない。
つい最近もこの話をスタッフとする機会があったとき、「そのおばあちゃんの料理は、どんな料理だったんですか?」と訊かれ、ハッとした。
なぜならほとんど記憶にないから。

ぼくが子供のころに食べていたもので記憶にあるのは、とても不規則な勤務形態の看護師をしていた母親がたまの休みに作ってくれたとても美味しい洋食やホットケーキと、おばあちゃんが作ってくれたインスタントラーメン、ベチャベチャなチャーハン、さんまを焼いたもの、目玉焼き・・・それくらいしか出てこない。
他にも野菜の煮ものらしきものが食卓に並んでいた気もするけれど、ぼくは手を出さなかった。

にんじん、かぼちゃ、トマト、ピーマン、茄子、キャベツ、大根、白菜、豆類全般、じゃがいも、きゅうり、玉ねぎ、しいたけ、かぶ、ほうれん草、さつまいも・・・野菜の名前を適当に出してもらえれば、ぼくは子供のときそのほとんどを食べることができなかった。
他にも、すいか、メロン、栗、豆腐、うどん、そうめん、味噌、カレー・・・それから和食全般といったなかなかの偏食ぶり。
大人になり多少改善はされたものの、ぼくが和食を美味しいと思って食べれるようになったのは35歳を過ぎたころから。酢の物が食べれるようになったのも、ちらし寿司が食べれるようになったのも40歳を過ぎてからだった。

これらは美味しくないものとずっと思っていたし、おばあちゃんが出してくれたもので子供心に美味しいと思ったものといえば、インスタントラーメン、ソーセージを焼いたもの、目玉焼きくらいだった。
こんな環境では職業として目指すまで食というものに興味など持つはずもなく、ぼくにとって食べものは空腹を満たすものであり、それ以上でもそれ以下でもなかった。

料理人を志したきっかけも特に食に興味を持ったわけでなく、フランス料理の見た目に惹かれ ”フランス料理人を目指せばフランスで暮らせ、店が持てる” という恐ろしく安易な動機だった。
そんなぼくは、厨房で食べたじゃがいもやかぼちゃ、ほうれん草に感嘆した。

「かぼちゃって、こんなに美味しいの!?」

「ほうれん草って、じゃがいもって、こんなに美味しいものだったのか・・・」

初めて食というものに興味を持った瞬間だった、と思う。

「おばあちゃん、何てことしてくれたんだよ・・・いままで損してたじゃないか」

そんな料理下手なおばあちゃんだったけれど、おばあちゃん子であるぼくら兄弟はおばあちゃんが大好きだった。
子供のころは毎日のようにぼくら兄弟から「くそばばぁ!」と言われ、それでも戦争体験のあるたくましいおばあちゃんは小さな身体で「くそばばぁってなんや!」と反撃しよく喧嘩になったけれど、まだ学生だった弟があるとき言った忘れられない言葉がぼくら兄弟の想いのすべてだった。

「くそばばぁ、あんたが棺桶に入るときには、ぼくが檜の棺桶を買うてあげるから、それまで長生きして待っとけ !」

弟の言葉が実現する前に、おばあちゃんは亡くなった。
ぼくら兄弟は号泣で、ぼく自身あのとき以上に涙を流した記憶がない。
いまとなれば、少しは上手になった料理やパンをおばあちゃんに食べさせてあげたかったな、とふと思うことがある。

それと、もう一つ。
おばあちゃんがいつも得意げに言っていた 「炒飯には、冷やご飯やで」って、あれ。

「それ間違いだよ、おばあちゃん」って、教えてあげたかったな。




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